川崎エッセイ 何かから回復する前兆 HOME
膀胱炎になったらしく、残尿感が続き、布団に入っても、すぐにトイレへ行きたくなり、ゆっくりと眠れない。
我慢出来ず、朝一番に近所の医院へ行った。診断を受け、薬を飲み、その後回復した。こういう時、医者が神様のように見える。
症状が悪化ではなく、良くなっている兆しが見えると、峠を越えたことによる安堵感が生まれる。
積極的に快適な暮らしを望むのではなく、不快の少なさを望む生き方がある。
これは、幸福を願うのではなく、不幸が来ませんようにと願うのと似ている。
つまり、特別に良いこともないが、悪いこともない状態が、意外と安定しているのだろう。
それは平凡な日々を望むことなのだが、その状態を退屈と見るのは贅沢となる。
膀胱炎が治った時、普通の暮らしを普通に出来ることの有り難さを再確認した。
体調を崩した時には見える風景も違ってくる。
いつもは、様々な欲望が目の前をよぎり、頭の中は、そのことで満たされている。そのため、街角を歩いても、ゆっくりと散歩を楽しむ感じではない。
体調の悪い時は、身体の調子ばかり見ており、神経もそこに集中している。風景を見るゆとりはない。
しかし、健康な状態で、その風景と接したいと願う気持ちはある。
そして、回復の兆しが見えた時の街角は、風景が鮮明に見える。どんよりと曇った日でも風景は明るい。
だが、完全に治った時は、情けない話だが又いつもの状態に戻る。
人が幸せを感じるのは、何かから回復する前兆を感じた時ではないだろうか。幸せそのものよりも、幸せが訪れるかもしれないと思った瞬間が、一番幸せな時かもしれない。