川崎エッセイ  伊丹の果てから 伊丹ジャンジャン横町  川崎サイト

 

伊丹ジャンジャン横町


 伊丹にジャンジャン横丁がある。いや、あったと言うべきか。
 僕は伊丹市に住んでいるが、阪急伊丹駅周辺へ行くとき「伊丹へ行く」と言う。つまり伊丹から伊丹へ行く。イタミはどうやら繁華街のある阪急伊丹駅周辺を指すようだ。
 昭和三十年、四十年頃の伊丹は、かなり怖い場所だった。それは僕が子供だったので、そう感じだだけかもしれないが、宮前商店街の奥にストリップ劇場の伊丹ミュージックがあった。
 その同じ場所へ映画観賞の授業で、ゾロゾロ行列を作って、見に行ったものだ。その頃は伊丹劇場と呼んでいた。
 教育映画を上映していた同じ場所が、ストリップ小屋になったのだから、仰天である。あの場所でそんなことを、と考えてしまった。映画鑑賞授業はその後、御園劇場や公民館に変わった。
「伊丹東映」「御園劇場」「若草劇場」「伊丹シネマ(大映と日活)」思い出しただけでも、これだけの映画館があり、初期のゴジラ映画などは、座って見ることなど出来なかった。一番人気のあったのは東映時代劇だ。


 そして「伊丹市場」「丸安市場」「日の出市場」もすごい活気で、買い物客であふれていた。
 その裏筋に伊丹ジャンジャン横丁がある。金物屋店「髭のオッサン」のご主人(故人)が名付け親らしい。
 だが火災と震災のダブルパンチで、この周辺も昔の面影はわずかしか残っていない。
 時代が移ろいでも残るものは残る。この横丁でもタコ焼き屋さんは残っており、行列が出来るほど繁盛している。この店は子供の頃からあり、父親がステテコ姿で自転車に乗り、よく買いに来ていた。
「子供の頃食べたタコ焼きは大きかった」と、他のエッセイで繰り返し書いているが、実はこの店での話だ。
 関西ではどうやらタコ焼きは不滅の食べ物のようで、関西文化を解明するキーワードのようだ。
 タコ焼きは熱い。一気に頬張ると、口の中がハフハフになる。この熱さが小さなタコ焼きを大きく見せる役割を果たしている。
 そしてメインはタコの歯ごたえなのだが、それはタコ焼きの本陣であり、「核」を一気に攻める楽しさでもある。
 如何に小さなタコの断片でも、タコ焼きの核としてのタコは構造的価値がある。イカやコンニャクを代用しても、タコ焼きはタコ焼きなのだ。
 タコ焼きはメリケン粉とテンカスからなる海綿体のようなものだ。核であるタコに近付く前に紅生姜やネギと遭遇する。この基本構造から発生する「味わい」は、不思議と食べる者に官能を与える。タコ焼きの持つ、この立体性をお好み焼きよりも評価する。
 さて、ジャンジャン横丁の名付け親である「髭のオッサン」の店はどうなったのかと、心配になり、少し覗いてみた。
 それらしき金物屋があったので、中に入ると、ギャル三人がホームゴタツて歓談していた。
 店の中にホームゴタツがあるだけでも驚きである。亡くなられた髭のおじさんのお孫さんだろうか。曾孫さんだろうか。
「昔、髭のオッサンの店がこの辺りにあったんやけど」と、分かり切った質問をすると「ここです」と、即答してくれた。実は、この夏も一度この店にお邪魔したことがある。そのときはお婆さん達がホームゴタツでくつろいでいた。ところが今回は、ギャルである。店が急に若返った感じだ。
 名物おじさんがいなくなったので、髭のオッサンの看板もなくなったのだろうか。
 髭のオッサンも伊丹ジャンジャン横丁も通称である。そういえば本家ジャンジャン横丁も通称だ。
 伊丹と大阪新世界がジャンジャン横丁でリンクされている。リンク先の新世界も昔の活気はない。毎日がエビスさん並の人だかりだった時代は、とっくに終わっている。
 伊丹ジャンジャン横丁も消防の関係で、道幅を広くするらしい。探訪するなら、今のうちだ。

写真はイメージです
1997/6/11


 

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