新伊丹
阪急伊丹線に「新伊丹」という駅がある。この新伊丹を「しいたみ」と子供の頃から呼んでいた。実家から一番近い駅だ。
ある日、近所のガキ大将のお供でセミ捕りに行ったとき、この駅で水を飲んだことがある。おそらくこの駅と関わったのがこれが最初だろう。そして「しいたみ」が「新伊丹」であることを初めて知った。
僕が住んでいる南鈴原(旧南野南菱町)から、大阪や神戸に出るには、バスで塚口(尼崎市)に出たほうが便利だった。それは家の前にバス停があったからで、新伊丹まで歩くより快適だった。しかしバスは決まった時間に来ないし、近所の人とバス停で一緒になるのが嫌で、高校生になると新伊丹まで歩いていた。
新伊丹駅周辺は、実は高級住宅地で、お屋敷が並んでいた。最近の建て売り住宅に比べると、坪面積が何倍もあり、門から母屋までの距離もかなりある。春になると花見が出来るほど桜が植えられていた。人の家の庭に咲く桜を見物出来る場所だった。
そして夏になると、そのお屋敷通りは絶好のセミ捕り場になる。その途中、新伊丹駅で水道の水を飲んだのだ。
線路沿いに駄菓子屋があった。「しいたみ」という言葉は子供の頃、この駄菓子屋を指していた。ここには標準より分厚いベッタンが売られていた。通常のベッタンは一枚物のボール紙に印刷されており、それをハサミで切るタイプだが、この店では既に切ったものを数枚束ねて売っていた。
ベッタン遊びでは紙の質がモノをいう。そのため、ロウをたらしたロウベッタンや、二枚貼り合わせた二重ベッタンを使う子供もいた。これは発見次第厳罰となる。つまり反則なのだ。ところが新伊丹の駄菓子屋のベッタンは1.3倍ほどの分厚さで、見た目には分からなかった。僕の町内では僕しかその存在を知らなかったので、密かに買って、使った。
分厚いベッタン(カタベッタン)は、信長が堺で鉄砲を仕入れるようなもので、これを使うと、有利だった。
その駄菓子屋は僕にとり、南蛮渡来の珍品が並ぶ戦国時代の堺に等しい。ベッタンだけではなく、強力なパチンコ(石やり)も売っていた。これは通常のゴムより強度のあるマカロニ型のゴムを使用していた。さらに、火薬を詰めて音を鳴らすピストルも、火薬そのものが大きいので、音も半端ではない。さらに吹き矢などもあり、RPGゲームに出てくるような武器屋のような雰囲気だ。
恥ずかしい話だが、中学生になっても、この駄菓子屋に通っていた。駄菓子を買って食べたり、新品駄菓子玩具(主に武器類)を買い続けた。そして奧(お屋敷の門と母屋の間の通路)で、お好み焼きコーナーが新設されており。あり合わせの板を利用したテーブルに鉄板をはめ込み、蜜柑箱を改良したような椅子の上に駄菓子などを梱包していたボール紙が何重にも重ねられ、クッション代わりになっていた。おそらく駄菓子屋のお婆さんが手作りで作ったものだろう。
お好み焼きも変わっており、妙に分厚く、そして硬いのである。一体何が入っているのかが謎で、鰹節のようなもので固めていたような気がする。
有害玩具や合成着色の駄菓子を売っている店なので、一寸した悪所である。三角形で色だけのアトムジュースは生温かく、夏場に飲むと余計に汗が出るほどだ。カスカスのチョコレートや、メーカー名が紛らわしいコリスのガムも噛んでいるうちに溶けてしまいそうな逸品だった。しかし、この店で買い食いし、腹をこわしたことはなかった。
さすがに高校時代になると、あまり通わなくなった。ベッタンもしなくなったし、パチンコで銃撃戦や雀狩りもしなくなったので、実用品が乏しくなったのだ。それでも怪しい玩具類を見つけだしては買っていた。
二十歳過ぎになると、夢の中でその駄菓子屋が登場した。そして思い出したようにその前を通るのだが、中に入ることは滅多になかった。
そして三十歳前後のとき、長く気付かなかったのだが、駄菓子屋が消えていた。普通のお屋敷の門になっていたのだ。
門の隙間から奧を見ると、駄菓子屋だった場所がはっきりと分かった。ただの通路に戻ってしまい、駄菓子屋の頃の闇は消えていた。
きっとお婆さんが亡くなられたのだろう。今思うと、あのお婆さんは何だったのか。大きなお屋敷に住みながら、なぜ駄菓子屋を営業していたのか。また、そのお屋敷に誰が住んでいたのかは今でも謎である。
1998/3/10
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