川崎エッセイ  伊丹の果てから 自転車街道  川崎サイト

 

自転車街道


 昭和三十年代、僕がまだ小学生だった頃、兄の自転車の荷台に乗せられ、見たことのない伊丹北部へ冒険に行ったことがある。
 小学生の僕としては、伊丹市内はまだ見ぬ暗黒の大陸だった。一歩外に出ると、そこはもう違う人種が往来する異国だったのである。
 鎮守の森、または風呂屋の煙突が見えなくなる距離まで離れると、戻れなくなる。その範囲を超えるのは、小学生にしてみれば冒険の旅だった。
 なにぶん昔の記憶なので、その道が何処だったのかは特定出来ないが、南菱(今は南鈴原)を出発し、北に向かったことは確かだ。つまり伊丹市南部から北部へ向かったことになる。航海日誌のように、あとで必要になるはずだと思い、記録するようなことはしていない。手ぶらで出掛けるのが普通だった。
 南菱の北は美鈴町や鈴原や堀池なので、きっとその辺りから北に向かったはずだ。南菱の周囲は田畑に囲まれており、北への道はバス道(新道と呼んでいた)か畦道しかなかった。その畦道は村道と呼べるほどしっかりとした道で、今でも住宅地の中をうねうねと続いている。
 札場の辻を抜け、さらに住友の工場がある国道171号線まで、その道は貫いているはずだ。村道と新しく出来た舗装道路とが、並行またはクロスしているため、旧道が分からなくなっている。ここでは村道と言っているが本当は西国街道へ出る由緒正しい昔の幹線道路かもしれない。
 どちらにしても昆陽まで来てしまうと、もう鎮守の森も風呂屋の煙突も見えなくなるので、外洋に投げ出された感じである。僕としては北や南の概念はなく、六甲山地から突き出た甲山の見え方のズレだけが唯一の指針だった。
 さすがに中学生の兄は、市内での位置を、おおよそ掴んでいたようだ。まあ当時の伊丹市郊外は田畑が多く、見晴らしもよいため、今よりも迷うことはなかったのかもしれない。
 細い道からいきなり大きな道に出た記憶があり、今思い出すと、それが京都まで続く171号線だったことになる。場所としては今の市民病院前だろう。
 兄が自転車を止め、茶店のような駄菓子屋に入り、妙な粉菓子を買ってくれた。いつも行く駄菓子屋には置いていない品のため、異国の食べ物のように思えた。おそらく黄な粉をまぶした練り物だったはずだ。不思議とその歯ごたえや舌触り、それに味までも覚えている。その後、同じものを食べた経験がないため、幻の駄菓子となっている。
 自転車のスピードが落ち始めた。坂を上っていた。東映の時代劇映画に出てきそうな街道風景のような場所だった。藁葺き屋根の家がぽつりとあり、太い木が一本立っていた。そこが坂の頂上で、右側に海のような池があった。おそらくこれは鴻池か昆陽池だったと思う。
 台風で大雨が降ると昆陽池が決壊し、洪水になるとかの噂が南菱にもあったため、初めて見るこの大きな池は、不気味以外のなにものでもなかった。池の周囲は雑草で覆われ、そこに地肌を見せた小道が一周している。この土手が崩れたら、我が家も水浸しになる感じなのだ。
 自転車はさらに北上し、繁み中に分け入り、橋を渡った。その下を覗くと大渓谷で、落ちたら死ぬと思った。今調べてみると、宝塚市の小浜に抜けていたようだ。
 さすがに兄も、ここまで来ると、疲れたらしく、ここで引き返した。その近くを走っている尼宝線の存在を、兄はまだ知らなかったのか、それとも大きな道は危ないと思ったのか、同じ道を素直に戻った。
 伊丹市南部から北部へ向かう自転車冒険だったが、そこで見たり感じた記憶は、三十年経過しても、まだ思い出すことが出来る。これは一体何だろうか……。
 子供にとって、伊丹市民という感覚は生まれない。単に目にする機会が多い場所に過ぎない。隣の塀や屋根瓦は伊丹も宝塚も尼崎も似たようなものなのだ。あえて特徴を述べるほどのことではない。しかし伊丹の任意の場所に住んでいることは、子供にとっては絶対的なことなのだ。周囲の風景が絶対的な構造で囲まれているからだ。そして、それは伊丹のどの場所にいるかによっても違ってくる。さらに言えば、同じ伊丹市内でも、時代によって見えなくなったものや、加わったものがあり、それらは非常に個人的な印象として焼き付けられる。
 伊丹の北、宝塚市内の南にある小浜が旧街道や港の宿場町だったことなど、当時の僕はむろん知らなかった。ただ、知らない町に迷い込み、怖いだけの存在だったのだ。
 もし、その近所に住んでいたら、親しみやすい景色として映っただろう。小学生だった僕が鎮守の森が見える範囲なら、安心出来たように。
 大人が把握した伊丹市、それは子供には当てはまらないのだ。伊丹っ子で括るスケールは、子供にとっては広すぎる。と、いうことだ。


1998/10/22


 

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