川崎エッセイ  伊丹の果てから 南小学校  川崎サイト

 

南小学校


 昭和三十年代、僕は南小学校へ通っていた。幼稚園も同じ場所にあったので、七年間通ったことになる。実は家と仕事場の往復のとき、その小学校の前を通るため、同じ道をまだ通っている。
 当時、小学一年生でも一人で通っていた。さすがに町内を出ると、見知らぬ「街道」に出るため心細かったが、お兄さんやお姉さんの後に付いていけば、自然と学校に到着出来た。しかも自動車はほとんど通っていないし、牛の糞があるような道なので、交通戦争にはまだ巻き込まれていなかった。そのかわり「ことり」にさらわれてサーカスに売られるとかの噂が、真実っぽく語られていた時代でもある。
 道は人が歩き、人が通るものだという意識が今も抜けないのは、自動車の通らない道を知っているためかもしれない。今、伊丹の道の殆どは自動車道路で、道の真ん中を歩けるようなところは希だ。
 小学校までの道沿いに、駄菓子屋さんが二軒あり、更に学校前には文房具屋さん兼駄菓子屋さんがあった。今は一軒だけ残っている。また、通学路の途中でヒヨコや手品のタネを売る人がいた。まともなおもちゃを買うには伊丹の市場まで出ないといけなかった。
 おもちゃではないが、文房具屋さんには理科の実験キットをあった。U字型の磁石や、モーターや、昆虫採集用の注射器や薬品などはおもちゃと変わらない。もちろんメインは駄菓子おもちゃなのだが、文房具おもちゃのほうが何となく高級感があり知的だった。
 通学路周辺は田畑で、春には菜の花やレンゲが咲き、キャベツ畑にはチョウチョが飛び、畦道には三つ葉のクローバーが絨毯を敷き詰めたように伸びていた。
 横断歩道も信号も通学路にはなかった。今は学校の前に大きな道路(千里万博時に出来た)がある。僕としては産まれて初めて接した近所の大きな道も、アスファルト舗装ではなかった。
 当時の南小は木造で、二棟を渡り廊下で四角く囲み、その真ん中が運動場だった。大げさだが砂漠のように広かったのである。そのため、暑い日に運動場を横切ることは、砂漠を横断するような感じで、日射病で倒れるのではないかと心配した。
 担任の先生は二年連続で教えてくれた。生徒は一クラス五十人はいたはずだ。なぜか五年と六年の時が、一番楽しかったような気がする。たとえば、歴史や地理は中学や高校で何度も何度も反復されるため、新鮮さや驚きがない。
 小学生時代は授業そのものが面白かった。学校が楽しかったのは五年六年を教えてくれた長谷川学級時代だけである。中学は小学校七年ではない。小学校七年八年と繋がって欲しかった。
 中学に入ると、徴兵されて軍隊にでも入れられたような印象になった。制服や帽子や名札とかで身を縛られるような思いだった。小学校卒業……僕にとっての学校は、そこで終わっていると言っていい。社会人を育てるのが教育だとすれば、皮肉にも社会人アレルギーを起こさせるのも教育だ。
 長谷川学級時代の木造校舎は鉄筋コンクリートになった。しかし校舎は同じ場所にあり、あの頃と同じ場所に窓がある。その下の道は農道だったが、今は舗装され、周囲も住宅地になっている。当時の面影を残す畑や御願塚神社の繁みはまだ残っている。
 長谷川学級の窓から飛行機に向かって手を振ったことがある。先生が出張か何かで、伊丹空港から飛行機で行くため、その飛行機を見送るためだ。
 出発時間と照らし合わせ、南の窓にみんな集まった。そして、それらしいプロペラ機に向かい、真っ赤な級旗を振った。その級旗は、授業が始まる前に運動場で遊んでいる仲間に知らせるための旗だった。
 今、考えると、その旗や手を振る僕らを飛行機から見えたかどうかは疑わしい。しかし、僕らは先生は確実に校舎の窓を見ている信じていた。先生の視線さえ感じた。そして、小さくなって南の空へ吸い込まれて行くのを見つめていた。
 長谷川学級の同窓会は、何度も行われたが、僕は一度も行っていない。
 その窓があった新校舎の真下の道を、今日も僕はスクーターで駆け抜けている。そこからでは空は狭い。
 時の流れと共に学校も街も道も変わる。そして誰もが今この時を生きている。ただ思い出した時だけ楽しかった過去が蘇る。それは今とはもう繋がっていないと知りつつも……。


1998/7/15


 

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