川崎エッセイ 絵解き世間之事情 その4 記憶      HOME

 僕の記憶は頭に中にあるが、思い出せないことがたくさんある。それで、手がかりになるようにノートにメモったりする。

 ところが、インデックスにあたるメモの文字を見ても、中身が思いつかないことも多い。できれば、中身も記録できればありがたいが、すべてを書き込むわけにはいかない。

 写真はその意味で記憶の糸をたぐりやすい。記念写真を見れば、おおよそその日の出来事も思い出せるが、枚数が多いと、いつ、どの場所で写したものかが分からなくなる。デートを写し込めば、解決するのだが、やはり一枚の写真から、古い記憶へとワープし、カメラで写さなかった箇所まで思い出していきたい。記憶が吐き出される瞬間は気持ちがいいからだ。

 最近は大容量の記憶メディアを個人的にも買える時代になり、個人が持っている写真程度なら、デジタルデータに変換すればストックできるようになった。

 頭の中で再生させていた記憶を、メディアに書き込み、再生装置を通じて、見たり聴いたりできる便利な世の中になった。しかし、何か違うのだ。それは、記録できない類のものが、まだたくさん残っているためだ。もしそれが、記録できたとしても(現実には不可能だが)どこまでいってもインデックスを見ているような気になる。

 過去の記憶は過去にあり、今にはない。しかし、過去の記憶は、今から呼び出される。呼び出した今の状況によって、過去の記憶も違ったイメージになる。

 記憶を今、記録する場合、それは今を反映した過去の記憶となる。そのため、それを記録したときの記憶が、記録に中に残っている。

 さらに、記憶の奥深くにあるデータ化もファイル化もされない「その他的」な、ふるいにかからない情報が、逆に気になる。本音的なものが、そこに隠されているような気がする。


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