川崎エッセイ 絵解き世間之事情 その11 石切神社 HOME
難波から奈良へ向かう近鉄電車が、生駒山の坂を登りかけたところに石切神社がある。最近出来た若い人のスポットではなく、昔からある商店街が神社まで続いている。
石切は中老年の人達が、ごく自然な感じで歩ける町だ。売っている品々も、それに合わせているのか、幅広の婦人靴や、風呂敷と似た絵柄の手提げ鞄などを見かける。つまりこの町は、中高年の人達の天国なのだ。
露天で傘の部品を売っているおじさんがいる。傘の先につけるキャップを売っているのだ。コンビニで低価格な傘が買える時代だが、一本の傘を大事に使う気持ちが起きる。
ここの商店街は、物を売るだけではなく、精神的な何かを注入してくれる。自販機とコンビニに慣れてしまった僕としては、物と人との関係を再認識する。
参拝は精神的なことだ。しかし神社だけがぽつんとあるだけでは、直截すぎる。参道の店は、娯楽を提供してくれる。石切神社のそれは庶民的で暖かみのある景観になっている。
つまり、普通に生活し、普通に暮らしている人達のハレの場なのだ。石切神社へ参拝は、それなりに健康でないとできない。長患いからやっと普通の生活に戻れたような人にとって、この参道を歩けることは、幸せを実感できる場でもあるのだ。
線路の反対側は生駒山の斜面と本格的に接するため、坂道となる。少し登ると上石切神社がある。周囲に店はなく、純粋に参拝するコースだ。振り返ると大阪を一望できる。市街地の高層ビルから見下ろす景観とは違い、満開の桜を手前に春霞に浮かぶビル群を見ていると、生きた心持ちになる。
それは、いつも市街地の雑踏の中に気持ちも埋まっているためか、上石切神社の視線で見ることで、気持ちが清められる。 いつまでも、そうあって欲しい場所がある。その願いが、暗黙のうちにあるのか、石切神社は元気だった。