ネットの穴                             川崎サイト

●ネット特有の世界について

「ネットのおかげ」という言葉を、ネット上でたまに聞きます。インターネットの掲示板やチャット、またはメールとかで、見知らぬ人と知り合えたり、必要な情報が簡単に得られる、とかのメリットを指しているのでしょう。逆にネット上でのトラブルで、ネット不信感に襲われる人もいます。良いことばかりではないことは確かでしょう。

 ネット上で出会う人、すれ違う人、それらの人々は「ネット人」というような特別な人種ではなく、近所や身の回りにいる人々と特に違った暮らし方をしている人々ではありません。しかし、ネットという場所が、フィルターとなり、リアルとは違った印象を与え合うのも確かなようです。

 ネット上では、見知らぬ相手とのコンタクトも可能です。これは、その内容よりも、コンタクトしていることが楽しいこともあります。ネット上でのコンタクトは、リアルの世界に強く影響を与えるわけではありません。例えば、インターネットの接続ができなくなれば、終わってしまう世界です。なくても日常に支障をきたさない世界です。

 リアルとネットを切り離して考える人もいます。例えばネット上で知り合った人に対しても、ネット上だけの世界で、それをリアルには持ち込まないタイプの人です。逆にネットを手段にし、リアルな関係を作っていくタイプもいます。さらに最初からリアルの関係があり、ネット上でもその関係を続けるような使い方もあります。

 目的や姿勢の違いはあっても、ネット上ではそれは分かりません。ネット上で愛想良くしていても、それが本当かどうかは分かりません。無愛想な人もそうです。ネット上でのポーズかもしれないのです。相手が本当はどう考えているのかはわかりにくいこともありますが、リアルでもそれは同じです。逆にネット上でやっと本音が言える人もいるはずです。

 リアルでは凄く良い人なのに、ネットでは乱暴な人もいます。どちらが本当でしょうか? 実はリアルでは出せなかった「ある面を」をネットという隠れ蓑のおかげで出している人もいます。その人と、リアルで対面して「あ、本当は良い人だったんだ」という「落ち」が付きます。しかし、「実は良い人」が果たしてネット上で妙な真似をするでしょうか?

 その人の真意とは裏腹に、その人の言葉で不快を感じる人もいるはずです。その人をよく知っている人なら、その問題はありませんが、その人のリアル上での実際を知らない人にとっては、言葉だけが伝わってきます。

 誰に対しても愛想の良い人がいます。相手にとっては快く響きます。悪い気はしないでしょう。しかし「誰に対しても」は「自分だけにではない」ことを気付くはずです。

 しかし、このタイプの人は、ネット上ではスムーズに泳いでいけるでしょう。ただ、リアルな関係になったとき、辛いかもしれませんが。その人がリアルでもそのタイプでしたら、いつものようにこなせば問題はないでしょう。ネット上だけ愛想の良い人よりもシンプルです。

 しかし、誰とも仲良くしている人は、何らかのトラブルで、A派とB派に分かれた場合、選択を迫られることもあります。ネット上手な人なら、もめ事には関わらないでしょう。片方に同調すれば、片方との関係がまずくなります。そのため、その場から退散する方法があります。そしてトラブルが終わってから、両派とも仲良くするでしょう。

 しかし、両派のトップからしますと、敵陣の人とも仲良くしている中立派の人を疎むことがあります。それは中立派の人が悪いのではないことは確かですが、両派のトップからしますと、安心できない相手となります。その保身性に狡さを見ることもあるからです。

 ネット上での「仲良し」は見せかけの場合もあります。「仲悪し」よりも「仲良し」のほうが選択肢としては好ましいからです。口先だけの「仲良し」はリアルでの「仲良し」とは異なります。ネット上での「仲良し」は簡単です。単純に言えば、「良い言葉だけ」書き込んだり、応答していけばそれでよいからです。リアルではそういうわけにはいきません。

 ネットはその意味で半ばバーチャルな仮想現実です。それだけにリアルでは発せられない辛辣な言葉も飛び交うおそれがあります。逆にリアルでは見せたことのない優しい言葉も飛び交います。ネットとリアルがほぼ同寸の人もいます。「チャット通り」の人です。精神的バランスとしては、チャット通りの人は誤解は受けにくいタイプになります。ネット特有なものより、リアルの延長としてネットを利用する感じです。

 どう考えても非常識な人もいます。これはリアルでもいるわけですから、珍しくはないのですが、リアル以上にネットではそれが増幅されます。ネット上の人達は、基本的には友好的です。多少のことは我慢してでも、友好的交際を維持しようとします。非常識な人は、その常識的な人達の甘えの上で成り立っているようなものです。そうなりますと、甘えさせている人達は徐々にストレスを感じ始めます。それが高じてきますと、その場から去るのが賢明でしょう。そのほうが波風が立ちません。ネット上には他にも似たような場がいくらでもあります。場合によっては自分でその場を作ることもできます。

 世の中には妙な人がいます。どうしてもその人の物言いとか立ち振る舞いが理解できない場合、精神的病に冒されていると考えてもいいでしょう。この場合、まともな説得は無駄に終わります。同じ土俵の上に乗っていないからです。

●常連と初心者

 ネット上での場には、任意のメンバーが何らかの結びつきで集まります。それが一つの集団となり、場のメンバーを形成します。平たく言えば「常連」です。場の主催者にとっては馴染みのお客さんとなりますが、主催者が直接関わらない場もあります。スペースだけ提供するサイトです。

 ネットの場での最初からの常連さんはいません。頻繁にアクセスする人でも、メールや掲示板・チャットなどへの書き込みがないと、姿なき常連さんとなります。表には現れてこない人ですが、アクセスカウンタや、アクセスログデータに、わずかばかりその痕跡を残しています。

 一方頻繁にアクセスし、頻繁に書き込む人は、ハンドルネーム(ネット上での名前)も残します。書き込む回数と書き込み期間の古さで、常連か否かが分かります。

 掲示板への書き込み、チャットへの参加などで、他の訪問者と言葉でのやり取りが発生します。書き込んだ文字列(ログ)に対して、他の人が反応し、それに対して何らかの書き込みをすることがあります(レス)。書き込んだ文字列は言葉として機能します。この場合の言葉は、書き言葉ですが、チャットなどでは話し言葉に近い文字列になることもあります。言葉は人柄をかなりの確率で表し得ます。言葉遣いもそうですが、語られている内容に、指向性を読みとることができます。つまり、意見や感想などを書き込むことにより、その人のキャラクタも表示されるわけです。

 その人とは面識はなくても、それに近いリアル上での人は、経験上見聞しているはずです。文字列だけの世界とはいえ、おおよその感じは掴めるわけです。この推測方法を利用し、実在とは異なる人柄を暗示させることも可能です。お年寄りだと思っていたら、子供だったりすることもあるわけです。

 さて、そういうやり取りを重ねるうちに、それなりに相性の良い人達が、その場に定着していきます。その雰囲気には指向性があります。その指向性が場の雰囲気を作ります。意見がたとえ相違していても、その場の雰囲気は好ましいわけです。仲の良い同類の人だけが、必ずしもその場のメンバーであるとは限りません。好敵手とかもいるわけです。

 ネット上での、場には、主催者、またはリーダー的な人が発生します。それは人間の集団についての興味深い現象だと言えるでしょう。それは、リアルでのグループと同じで、いつの間にか、誰かがリーダー格になっているけです。

 リーダーは、場を仕切ることがあります。常連の親玉という感じになることも有り得ます。初めてその場を訪れた初心者は、新人と言うことになります。下世話に言えば、新参者です。その場に馴染み、その場の仲間として参加し続けるには、常連との関係が問題になります。既に出来上がっている世界に、入り込むわけですので、その図式はサークルへの参加と似ています。

 最終的にリーダーの洗礼を受けるような感じになります。リーダーとの相性が悪いと、居心地がよくありません。和気藹々としている場ほど、新人は入り込みにくいと言えるでしょう。常連の人も新人の人も、互いに悪意があるわけではないのですが、場にそぐわない新人は弾き出されやすいようです。

 ネット上で起こる不幸なトラブルは、見知らぬ人が簡単に場を共有できることで発生することがあります。そのため、見知った関係になるため、仲間意識を高め合います。当然、実際に仲良くなることも事実あります。

 常連の人々が、必ずしも仲良しではないこともあります。しかし、その場に加わっていることで、仲良く見られます。そのあたりはリアルでの集団と同じです。常に何かを孕んでいます。これは人間関係の宿命でしょう。

 新人(新参者)にとって常連達のキャラが好ましい場合は問題はないでしょう。しかし、新人が常連に懐いても、常連達が受け入れるとは限りません。実際には受け入れるような口調になっていても、ネット儀礼なのか本心なのかは分かりません。

 常連達は団体戦をしています。他のメンバーとの兼ね合いを考えた上で、新人の扱い方を考えることもあります。毒気のない新人は受け入れやすいでしょう。

 常連達はオフ会をすることがあります。チャットや掲示板などで、オフ会の話題で盛り上がったりします。その集団で仲良くするには、そのオフ会に参加しないと「一人前のメンバー」ではないような錯覚を起こさせます。オフ会を目的とする集団なら、それでよいのですが、広く一般の人や、地域を限定しないネットならではの展開をしている場所ではオフ会は単なるオプションになるはずです。

 オフ会に参加した人と、そうでないメンバーとでは、親しみ具合が異なってしまいます。オフ会は親睦を高めますが、参加しない人は、逆に寂しい思いをするかもしれません。しかし盛り上がっている常連達は、そのことに気付かないことが多いようです。

 毒気がなく、愛想の良い新人は、大概の集団に受け入れられるでしょう。と言うことは、ある決まったキャラでないと、集団に参加しにくいことになります。しかし、この例は、親睦とかが目的の場で、議論や、何らかの事柄についての知識を得るための集団には当てはまらないことがあります。多少不快感があっても、必要な情報を得るために参加することがあるからです。そういう場ははっきりとした目的がありますので、人間的な面やプライベートな面までタッチするようなことは少ないようです。

 新人から見ますと、常連達は一枚岩のように感じてしまいますが、実際には常連の一人一人は単なる個人です。仕事的な繋がり、趣味的な繋がりはあるでしょうが、常連達も実は孤独感を常に抱いています。ネットの儚さは、ネットがなくなっても果たして継続するかどうかです。これはネットで関係し、その後、ネットを離れても存続するかどうかです。これは、ハンドルネームではなく、本名での関係になります。

 しかし、親密になればなるほど、常連達の強度は増し、新人はおいそれと入り込めなくなります。その意味で、大して深い関係にはなっていない常連がいる場のほうが、新人は参加しやすいと言えるでしょう。

●ネット八方美人

 八方美人とは愛想の良い人という意味です。実際にはそうではなくても、癖として八方美人的になることがあります。そのほうが円滑に過ごせるからです。リアルよりも、ネットのほうがその気になれば関係できる人は膨大な数になります。しかし、ネット上のログだけで、簡単に仲良くできるのはおかしな話です。それだけの情報量で、果たしてどれだけ相手のことが分かっているのでしょうか。

 それなりの理解をしないで、仲良くしているよう姿勢をとる場合、逆に不信感を抱く可能性が生じます。誰に対しても友好的な人は、本当は誰と友好的なのかが分からなくなります。これは相手側から見ますと、信頼を寄せにくい相手になる可能性も秘めます。しかし、相手側が必ずしも信頼関係を求めているわけではありません。

 八方美人は一種の癖のようなことになることもあります。そういうものの言い方をする人です。愛想の問題とも絡みますが、愛想の悪い人よりも、愛想の良い人のほうが好感度は高いのはい言うまでもないことですから、ネットを円滑に泳ぐには、愛想が良いほうが好ましいわけです。また、実際にネット外でも、愛想の良い人もいるわけです。そして、嘘を簡単についている自分に気付くはずです。

 八方美人的なネットライフで自己嫌悪に陥ることも有り得ます。腹の中と言っていることとが違うことが多くなりますと、自分でもストレスを感じ出すかもしれません。「本当のことが言える面」がネットにはあります。これだけに特化した人はトラブルを招きやすいのですが、ネットだからこそ言える自然な本音もあります。

 ネット八方美人の人は、本音が別にあると、誰しも推測できるはずです。それに対して疑惑を抱きます。それを払いのけるぐらい見事な芸があればよいのですが、どこかで不審なところが見え隠れします。それは発言内容でなくても、ネット上で交流している関係性にも見いだせます。

 八方美人と似ていますが、実際には人と人とを結び、その繋ぎ役をしている人もいます。こちらは世話人的な人で、橋渡しの上手な人です。このタイプは前記の八方美人とは違います。つまり、八方美人タイプの多くは自己防御の手段のようなものです。敵を作りたくないということで、身の安全に貢献するわけですが、橋渡し役の人は、自分と相手との関係ではなく、その相手と、別の相手とを結びつけるところに喜びを感じます。言ってみれば積極的に輪を広げようとします。その場合、直接自分とは関わらなくてもいいわけです。

 このように見ていきますと、ネット独自の人物タイプがあるのではなく、リアルそのものの引き写しだと言えるでしょう。ただ、ネット独自の仕掛けが、任意のキャラクタ性を増幅したりするだけです。ネット八方美人の場合、リアルよりも、フォローや保証の裏付けが希薄で、確かめる方法が狭いため、適当にべんちゃらを述べても、真意の実態はわかりにくいものです。その意味で、リアルでの上手な八方美人ではない、下手な不美人が横行することも有り得ます。実際に会ったとき、全然そういう人ではなく、ぶっきらぼうで、無愛想な人だったという感じでしょうか。ネット上だから誤魔化せるわけです。

●仮想キャラ

 ネット上の多くの場では実在の顔が隠されています。本名を明かさない匿名性がまかり通っています。それは何処の誰がそれを見ているか分からないため、本名とは違うハンドルネームを使うわけです。そこで語られていることは、その場では普通の内容でも、その人のリアルでの交際範囲の人から見ますと、意外な面をさらけ出しているような感じとなります。ある意味で、それはその人のプライバシーに関わる問題です。そのため、どこの誰だかをぼかす意味で、ハンドルネームを使うのです。これはネット上でのニックネームです。そしてネット上だけで通じる名前です。オフ会でもハンドルネームで呼び合うのが普通です。もし本名、もしくはリアルでのニックネーム(愛称)で呼ぶと、他のメンバーよりもかなり親密度の高い関係になり、リアルな集まりなのか、ネット上だけで知り合った人達の集まりなのかが、曖昧になってきます。初心者がオフ会で味わう疎外感は、リアルを含めた上での仲良しグループに入れないことです。

 ハンドルネームは仮想キャラなのか、単なる名前だけのことなのかは曖昧です。ハンドルネームだけの関係は、ネットだけの関係がメインでしょう。ネット上だけの名前なので、キャラクタもネット上だけの「顔」であってもかまわないわけです。

 リアルを伴わないことが、ネット上での仮想キャラの特徴です。つまり実体が隠されているため、想像力で補うしかないのです。そこで語られていることが、リアル以上にリアルなこともありますから、話は妙になります。

 リアルとネットでは条件が異なります。そのため、リアルな日常では閉ざされていたようなものを、ネット上でなら打ち出せることも有り得ます。リアルでの人間関係には限界がありますが、ネット上での場は無数に存在します。そのため、新たなキャラクタとして登場し、一から関係を作り出すことも可能です。例えばリアルでは見せられないような性癖や、語れないような趣味性などを、ネットのどこかの場では普通のこととして受け入れてくれることもあります。

 本人は決して仮想キャラを演じているつもりはなくても、言葉上でのキャライメージが発生します。これは、実際にリアルで対面しなければ分からないことです。全く違う雰囲気の人である可能性もあります。オフ会などで、実物を見るのは、逆にマイナスになることもあるでしょう。その後、ネット上での印象が違ってしまうかもしれません。当然、その逆もあります。

 人は言葉によって考えると言われています。感じることは、言葉ではないかもしれませんが、ネットでのやり取りは言葉がメインですから、感じたことを言葉にしないと伝わりませんし、情報として載せることもできません。

 それがたとえ仮想的自分としてのキャラクタを演じるつもりでも、言葉として書き込んでしまいますと、その書き込み中、その仮想キャラの精神状態に一瞬成ることがあります。これはネット上だけではなく、リアルでの人との関係でも、任意の集団、任意の相手に対して、語り方や接し方が異なるわけですから、自分が分裂しているわけではありません。そのほうがスムーズにことが運ぶからです。同じ人が、別の場所では違った雰囲気になることはよくあります。ネットでの仮想キャラは、その一面だけを特化しがちです。情報量が少ないため、顔の表情とかが分からないため、リアル上でのキャラを推し量りにくいのです。

 ネット上で「あの人のキャラが変わった」とかの表現がありますが、それを観察している人が果たしてその人の本当のキャラをどれだけ把握して言っているでしょうか。リアル上で長くつき合っている人でも、本当のその人のキャラは分かりにくいものです。ましてやネット上でのキャラなど、ほんのさわりしかキャラを発揮していないかもしれないのです。

 世の中には相手の気性とかを見抜く力を持っている人がいます。そういう人ほど、相手の罠にはまりやすいかもしれません。相手も、こう語ればこう思われるだろうと言うことを予測しています。どう思われるかの方向性を操作できるわけです。その意味で、相手のことは本来分からないぐらいの認識で、決めつけない方が好ましいようです。

 ネット上での仮想キャラ的雰囲気は、ハンドルネームだけでも影響します。その意味で、ハンドルネームで、カムフラージュすることも多いようです。ハンドルネームだけで、仮想キャラの輪郭をイメージ化させてしまうわけですから、単純なものです。それは接する側が勝手なイメージを抱くだけのことなのですが、そう抱かせるように仕向けている場合もあるでしょう。そんな簡単なことで、キャラクタが発生するわけですから、基準が如何に曖昧で、思い込みが如何に多いかということです。

●裸の王様

 思い込みの強い人はネット上では「鈍い人」となることがあります。例えば相手に不快な思いをさせたとしても、その相手がきっちりと「不快です」とログを返しにくい状態では、全く反応しないか、間接的で曖昧な意思表示となることが多いのです。これは当事者しか読めないログなら別ですが、第三者や、ネット上での知り合いとかも見ていることもありますので、ダイレクトなものの言い方がしにくいことがあるわけです。

「不快である」と言ってしまいますと、相手も不快になりますし、それを見ている人もきな臭い気分になるでしょう。そうであってもかまわない場もありますが、わりと親睦を目的としたような憩いの場では、波風を立てないことが好ましいように思われがちです。

 相手に不快を与えていることが分からない人がいます。その人に間接的意思表示をしましても、鈍い人は自分の都合の良い方に解釈しがちです。和気藹々と楽しんでいるような場でも、この種のぎくしゃく感がつきまといます。よく理解し合った仲良しグループでなら、このような問題は少ないかもしれませんが、不特定多数の人が参加できるようなネットの場では、接する相手を選択できません。

 思い込みが強く、相手の気持ちを都合良く解釈してしまい、本当のことが伝わらない状態は、裸の王様と似ています。このタイプの人はネット特有のものではなく、リアルでも存在しています。

 その裸の王様さえ消えてくれれれば、スムーズに行く場になる可能性もありますが、その人を徒党を組んで追い出すのは、フェアーではありません。できればそのことに気付いてもらうことが好ましいのですが、それには時間がかかります。一番簡単なのはダイレクトに言うことなのですが、裸の王様の人格を攻撃することになります。ネット上において、明らかなマナー違反とかをしない限り、落ち度にはならないのです。「あの人の性格が嫌」では、理由になりません。

 裸の王様の鈍さはネット上での場違いを気付きません。しかし場が形成され、場がどのように展開されるのかの問題は、一筋縄ではいきません。その場にふさわしい人であるかどうかの判断も曖昧です。共通するものを持った人の集まりでも、その場にふさわしくない人は生まれます。これは共同体にはつきものの問題です。

 しかし、裸の王様がその場にいるため、去っていくメンバーもいます。それが一人なら偶然相性が悪いということで、一般例にはなりませんが、複数になりますと、裸の王様が問題になります。去っていく人から見ますと、裸の王様以外の人とは仲良くしていきたいし、また実際にスムーズにことが運んでいる場合、継続したいわけです。そして、他のメンバーの中に、裸の王様と友好的な人が複数いるとなりますと、変なことを考えているのは少数派ということになります。

 しかし、裸の王様と友好的なのはネット八方美人の人達である場合、友好度も社会儀礼的だと言うことになります。ネット八方美人の人は、平和的で、友好的で、愛想がよく、誰とも仲良くやっていけるタイプなのですが、裸の王様的な鈍い人を増長させることにもなります。

 裸の王様も、実際には悪い人ではありません。単に鈍いだけです。しかし、その鈍さは、他のメンバーにもあるわけです。裸の王様という特別なタイプがあるのではなく、人はネットでもリアルでも、思い込みやすい動物だということです。これは任意の人を任意の何かに置き換えて「決め込み行為」をしたがるものなのです。

●ネットトラブル

 ネットは接続しないと何も起こりません。接続しないと、そこでの人間模様も消えてしまいます。リアル上での仲間が、ネット上で集まる場合、それはリアルの延長です。それでも、実際の会話と、手紙での物言いとでは、情報のニュアンスが異なります。リアルでは言いにくいことを、手紙の中で、こっそりと書いたりできます。手紙は会話と違い、相手がいちいち頷いたり、突っ込んだりしません。その意味で、手紙は一方的となります。ネットでの書き込みはそれに近いもので、リアルな関係で、お互いに理解し合っている関係でも、ネットでの書き込みはリアルとは態度の違い、反応の違いがあります。そのため、リアルでの関係とは違う側面を見せ合うことにもなります。

 電話は双方向性が高い仕掛けです。相手の息づかいなどがリアルタイムに伝わってきます。そのため、感情面を撫で合う状態となります。迂闊なことを言えば、即反応が返ってきます。手紙やメールや掲示板では、タイムラグがあるため、メッセージを受け取った後、判断するゆとりがあります。それは冷静に情報の意味を吟味できますが、情報によっては考え込んでしまう時間も長くなります。リアルでは起こらないような誤解が、ネット上で起こります。または、相手の真意がわかりにくい場合、判断に迷います。さらに言いますと、悪意のあるメッセージを書き込んでも、相手が抗議しても、「それはあなたの誤解では?」と言われかねません。相手の表情が分からないため、口先(文字列)では何とでも言えてしまうものです。

 ネットの知り合いは信頼できなく、リアルな知り合いこそ信頼できる関係だという意見もあります。しかし人間関係における「信頼」は、意味の幅が広く、信頼レベルも、人によってはまちまちです。「信頼できる人」は世の中に確かに存在します。しかし、信頼できる人と、信頼関係になれるかどうかは分かりません。あくまでも「関係」ですので、「信頼し合える関係」は、一方的には成立できないでしょう。そして、互いに信頼関係がしっかりしているかどうかは確かめようがありません。リアルの世界でも、信頼関係が簡単なことで消滅する例を多く見ているはずです。信頼関係に関しましては、ネットもリアルも、さほど変わらないと思います。

 ネット上での信頼関係を求めていない人もいるでしょう。そんな場所で求めるのは無理だという感じがしないでもないからです。それにリアルよりも多くの人々と関係できますから、信頼関係の質も違ってくるはずです。ネット上での「信頼関係」は、通常関係には置き換えにくいかもしれません。

 信頼関係は無理でも、友好関係なら成立しやすいでしょう。たった一言のメッセージのやり取りでも、それを繰り返していくうちに、何かが育まれていくことがあります。これは「それなりの情」が通い合うということです。

 毎日のように言葉のやり取りをする…というようなことは、リアルでの知り合いでも、そう多くはないはずです。たまに出会って数時間お喋りをするという感じです。しかしネットでは言葉こそ短いのですが、その気になれば日に何度も可能です。最近では携帯型メールでのやり取りもありますが、それもネットの一種です。

 また、オープンチャットなどでは、リアルタイムに複数の人が場を共有し、そこがサロンや溜まり場のようになっています。毎日のようにお喋りができる場があるわけです。連日それに参加していますと、知らないうちにそのメンバーとなり、仲間意識が芽生えます。これは実は錯覚なのですが、「疑似仲間」「仮想仲間」は、リアルでの仲間の場よりも、敷居や条件が曖昧なため、加わりやすいのは事実です。リアルな仲間も、仮想的な面も有り得ますので、最初から仮想的な場のほうが、割り切りやすいこともあります。

 その場がたとえ仮想でも、長くその場にとどまっているうちに、リアルでの関係と同質のものを感じることもあるはずです。しかし、それがリアルになると、とたんに生々しくなります。この生々しさは、リアルと同じで、良い面と悪い面を併せ持ったものに接することになるわけです。ネット上での「軽み」はリアルでは肉が付きすぎるため、やや重いものになります。

 オープンチャットが盛り上がってきますと、オフ会のイベントが発生することが多いはずです。そこで現実に出会うわけです。この場合「肉」が含まれています。そして、より親しくなった関係は「肉」を持たない、つまりオフ会に参加しなかった人との間に、何らかの違いを発生させます。その後のオープンチャットの現場でも、オフ会の話がでてくるでしょう。参加できなかった人、または参加したくなかった人達は、オフ会組の人達には加わりにくくなることもあります。

「肉」を持たない仮想的でバーチャルな場の中に「肉」を持った関係が生まれてきますと、オフ会組の人達が、そのオープンチャットの主導権を握るでしょう。

 オープンチャット上だけの関係なら、誰もが同じ情報を得ることができます。ところが、オフ会の場は、閉ざされてます。そこでの情報は、参加者にしか分かりません。また、参加者でも、席が離れていたりすると、誰が何を喋ったのかまでは分かりません。

 オフ会が行われる場所は、宴会の場に近く、飲み会になることが多いようです。この場合、チャットでのリーダーではなく、宴会場を仕切る人がリーダーになることもあります。チャットは言葉だけの世界です。それも書き言葉です。しかしオフ会では、話し言葉になり、さらに身体的行為が伴います。敢えて「肉」を持った関係という説明をしなくても、宴会そのものなのです。

 チャットで多弁だった人も、実際の話し言葉での会話になりますと、口数が減るかもしれません。また、書き言葉では無口だった人も、話し言葉では雄弁になるかもしれません。

「肉」を持った関係はリアルと何ら変わることはありませんが、そこに集まった人々はリアルで知り合った人達ではなく、ネット上で偶然知り合った関係が多いようですので、珍しい組み合わせとなります。

 これはそのオープンチャットや掲示板の特徴にもよりますが、多種多様な職業や年齢層が、ネット上で見知っているという理由だけで、結ばれるわけです。リアルでは相見えることのない人々であるとも言えます。これが、ネットを介してのプラス面であるか、マイナス面であるかは、答えは出せないでしょう。

 仮想的、バーチャル的側面がネットにはあるとしましても、チャットなどではリアルな実体が、その後ろにいるわけですから、具体的に相見えることは物理的に可能なわけです。そこは幻想の世界ではなく、リアルと繋がっています。そのため、ネットを離れ、リアルで関係しても、何ら不思議ではありません。

 しかし、その人の日常の世界からしますと、ネットで関係した人々は、まるで別世界のように感じられることもあります。それは、個人で、何らかのサークルに加わることと似ています。リアルでのサークルは目的意識がかなり強いはずですが、ネット上でお喋りする程度の関係は、サークルほどの強度はありませんし、複数の場に加わっていても、それほど負担にはならないでしょう。

 そのオープンチャットのオフ会に参加できなかった人達も、距離的、または趣味的に、または人間関係的に、行きやすいオフ会に参加できるわけです。リアルでのサークルとは異なり、オープンチャットなどでは「会員」というような概念が希薄なようです。何らかのトラブルに備えて、会員登録が必要な場もあるようですが、そこに加わったからといって、リアルでのサークル活動の場ほどには義務も責任も強く問われることはないようです。

 オフ会での関係がメインとなり、チャットがその打ち合わせ場のようになりますと、オープンチャットのオープン性が怪しくなってきます。「初めての方も是非参加を」と誘えますが、既にできあがっているサークルに新人が入り込むのはかなりのプレッシャーでしょう。さらにネット上では顔を見せないメンバーの知り合いとか同伴者も参加しますと、これはネットのオフ会ではなくなってしまいます。

 また、オフ会後での書き込みで、見聞した情報が書き込まれることがあります。その時「あの人は美男子」「あの人は美人でした」などの肉体情報が伝えられます。美男子でもなく、美人でもない人や、容姿に自信のない人は、堪らない気持ちになるかもしれません。

 オフ会により、より強い結びつきや楽しみを体験できますが、行き着くところは「リアル」なのです。当然それを目的とした場なら問題はないはずですが、ネット上だけの関係を求めている人にとっては、入りにくい場になります。この場合、オープンチャットではなく、会員制チャットとかに切り替えるのも方法でしょう。

 このあたりの問題は「第三者の目」に関連してきます。

●第三者の目

 誰でも読んだり書き込んだりできるネット上での双方向の場では、誰がいつ見ているかは分かりません。その場にいつも来ているような常連さんばかりではなく、書き込んだ人のリアルな関係者が覗きに来ている可能性もあります。ネット上でのニックネームであるハンドルネームで、身元を隠すのはそのためです。

 ネット上ではハンドルネームがその人の顔になります。ハンドルネームは似たような名前があり、そっくりそのまま同じ名前の人が何人も存在することも有り得ます。別に登録制ではないので、ハンドルネームは好きなように名付けることができるからです。

 同じハンドルネームの先住者がいる場では後から来た人は、違うハンドルネームを作ることもあります。ハンドルネームは目印なので、目印は変更したり、場合によっては複数作っても良いのです。

 同じ場で、ハンドルネームを変え、別人になりすます人もいます。また、一人二役を演じる人も現れます。別の名前に切り替える場合、それなりの事情があるようです。今までの名前では手垢が付きすぎたり、不本意な印象を与えすぎたりで、もう一度一から新しい人間として出直したいと考えるわけです。

 違うハンドルネームを即席に作り、名前を隠れ蓑として従来の名前では言えないような発言をする人もいます。紛らわしい名前を一時的に使う人もいます。その人を知っている人なら、同一人物であることは分かりますし、また、分かるように元の名前を少し変える程度なら問題はないでしょう。この現象は、ログの流れで、名前もログの一部のように、併せて使うような感じになります。全く別人のように思わせてしまうと、失敗です。この人は誰だろうかと、考えさせてしまうからです。書き込んだ本人は、相手の人を知っていますが、それを読んだ人は相手が誰だか分かりません。まさに隠れ蓑です。

 公開されている場では、当事者と相手との関係だけではなく、それを見ている第三者がいます。当事者同士だけが分かるやり取りは、第三者には伝わりません。しかし、そのやり取りに対して、それなりの感情は抱くはずです。例えば、当事者同士なら、冗談ですむようなやり取りでも、第三者が見ますと、妙な感情を抱くことも有り得るのです。つまり、言葉に反応するわけです。その真意が和やかなものであっても、そうは見えないこともあるからです。

 公開の場での双方向のやり取りは、当事者同士だけが見ているわけではありません。公開である限り、それを見た人のことも考慮すべきでしょう。しかし、この問題も、常連さんで、キャラクタが分かっている人なら、慣れた読み物のような感じで、受け取ることもあります。それでも、クールな目で見ている第三者の目は情け容赦なく辛辣かもしれません。

 同じ場で、違うハンドルネームで、とんでもないことを書き込む人もいます。この場合、その人の接続プロバイダ名が表示されるチャットや掲示板ですと、おおよその推測で、本人が割れてしまいます。プロキシーサーバー接続で、分からないようにしている人は、最初から確信犯だと疑ってもかまわないでしょう。また、複数のプロバイダに入っている人は、接続先を変えるような凝ったことをする場合もあります。

 相手のハンドルネームを間違えるのは、良くないことですが、入力しにくいハンドルネームの人は、それなりの覚悟は必要かもしれません。長すぎるハンドルネームの人は省略されても仕方がないこともあります。また、相手のハンドルネームをもじって駄洒落を言う人は芸をしているつもりでしょうが、名前をもじられるのを嫌う人もいることを考慮すべきでしょう。

 同じネット上での場で、複数のハンドルネームを使う場合、うまく使い分けができれば大丈夫でしょう。結局はハンドルネームを隠れ蓑にし、悪戯や嫌がらせに使うから問題になるのです。

 ここで言う「第三者の目」とは、社会道徳的な視線に限定したものではありません。同じ場を共有している人の気持ちを指しています。たとえばある掲示板を一人の人が連続して書き込みをしますと、その人は掲示板に対する貢献度は高いため、問題はないように感じるかもしれませんが、第三の目である他の人は、そこに書き込みにくくなります。つまり、オープン掲示板が、個人掲示板のような雰囲気になってしまうため、新たに書き込もうとする人は、あたかも個人の部屋にはいるような気持ちになることがあるのです。

 また、いつも居座っているような掲示板の「主」の存在も、ウザイ感じを与えます。そこで誰かが書き込みますと、必ずその「主」がレスを付けます。その場は、その「主」の個室ではありません。その掲示板のテーマなどが本来の「主」なのです。

 この状態は「裸の王様」状態とも似ています。掲示板の「主」は、別に悪いことをしているわけではありません。むしろ掲示板上での貢献度は高いのです。これに対して、誰かが不快を訴えるようなことは、普通はないことです。なぜなら、その掲示板は、そういう問題を語る場ではないからです。それに、下手なことを言いますと、波風が立ちます。波風が立ちますと、掲示板はそれどころではなくなり、ますます一般の書き込み者が引いていきます。「裸の王様」は、早くそのことに気付いて、自分自身が掲示板を主催すべきでしょう。

 第三の目は、直接裸の王様と接することはないかもしれませんが、その種の視線があることを気にすべきでしょう。そしてマイナス面だけではなく、その第三の目に対して、何らかのメッセージを作為的に発することも可能です。その場合、第三者にも耐えうるような主張であるべきでしょう。

●ネットは生き物

 ネット上での場は常に変化しています。複数の人が行き交う場では、それらの人々の動きがそのまま場の動きになることもあります。場を共有している人達の、自然な成り行きで、場の雰囲気は作られていきます。これは双方向な世界の特徴です。

 リーダー的な人なり、よく書き込む人が、場を引っ張っていきます。そして中心人物がいなくなりますと、場はまた違った雰囲気となります。

 同じ場でも複数のグループが行き交うこともあります。つまり複数の中心人物がいる場です。それらのグループは、場から生じることもありますが、別の場で仲良くなったグループもあります。実際には明快な所属グループなどは存在していないのですが、チャットや掲示板のログで推測できます。また、同じ場を共有しながら、ほとんど会話を交わさないメンバーもいます。

 また、複数のグループと接している人もおり、場合によっては最初のグループから別のグループへ移ってしまうこともあります。ネット上の場で、最初に交わった人達よりも、その後の展開で、もっとも居心地の良いグループに加わるのは当然でしょう。

 どこのグループにも所属していないと、本人は思っていても、その人が交わっている人との繋がりで、一つの塊として第三者の目には映ることもあります。いずれも、はっきりとした規定があるわけではありません。会員証やグループ証が発行されるわけではありません。そういう「見せかけ」が発生するだけです。

 流動性の高い場もあります。半年もすれば、メンバーが入れ替わっていることも有り得ます。場は無数にあります。そのため新しい場へ移動したり、まだ手垢の付いていない新しい場を「住処」にすることもあります。さらに、今までの場では、どうしても自分が発揮できないとか、苦手な人がいるとかの理由で、場を移動することもあるでしょう。

 馴染みの場からしばらく離れ、戻ってくると浦島太郎状態になっていることもあります。それまではメンバーのほとんどは知っていたのに、知り合いよりも新しい人のほうが多くなっているとかです。当然雰囲気も変わっているでしょう。その人がその場での常連であったとしても、その後参加した新人達は、そのことが分かりません。新人達にとりましては、浦島太郎さんは自分たちよりも新人ということになります。浦島太郎さんが常連ぶっても、それは通じないのは当然です。浦島太郎さんを見知っている古い常連達は、歓迎することもありますし、邪魔者扱いすることもあります。浦島太郎さん抜きで、これまでうまくいっていた場合、場のバランスが狂うのではないかと考えたりするからです。

 ネットの場は生き物です。いつも同じではありません。場を作っているのは、そこに行き交う人々です。そしてメンバーとの関係で場は構成されていきます。その意味で、毎日場は変動していると言っても過言ではありません。

●肉のない世界

 ネット上での双方向的場はそのメリットとデメリットの面が、精神的な面として出てしまいます。その人のリアルでの人間関係では接せられないような人と、簡単にコンタクトできます。実はこれが曲者なのです。

 リアルでのコンタクトは、様々な手続きをしないと出会えません。ネットでの努力は単にネットに繋ぐ努力だけで可能になります。そのインターネット接続も、パソコンを買ったその日から繋がるほど簡単になりました。確かにパソコンは安いものではありませんが、十万円前後で買える時代になっています。この値段は、特に贅沢な買い物ではなくなっています。スクーターを買う程度の金額です。

 パソコンを買い、プロバイダ代や電話代を払うことで、ネットに繋がります。ここまではお金がかかるわけですが、その後繋ぐネット上のウェブページの閲覧は、ほとんど無料です。当然、チャットや掲示板のほとんどは無料です。しかし、そこへ繋ぐまでのお金を払っているわけですから、無料で見ているわけではないのです。お金を払って何かをしているわけですから、その金額に見合うものを得ようとする気持ちも生じます。また、その権利があると錯覚している人もいます。つまりネット上では自分はお客様だと思いこんでいる人もいるわけです。これは明らかに錯覚でしょう。接続プロバイダ会社に対してはお客様ですし、電話会社やパソコン機材やソフトについてもお客様ですが、その基本ベースを使って、ネット上で何かをするとき、そのウェブサイトが有料でない限り、お客様では有り得ません。

 さて、以上の準備をして、ネットに繋ぐわけですが、ネットでかかる維持費や初期諸費用は自家用車を乗る場合と同じだと考えてもよいでしょう。それでネット上を走り回るわけです。

 ネット上での人間に対してのコンタクトはリアルよりも簡単ですが、それがあまりにも簡単すぎるため、何かが抜け落ちているのではないかと不安になることがあります。たとえばリアルでは全く相見えることのない異なる環境の人と「口がきける」わけです。それは相手側も同じことです。

 もっと下世話な例で言いますと、リアルでは相手にしてくれないような人でも、互いに実体が分からないため、とりあえずは口をきいてくれるわけです。ここにメリットとデメリットが生じます。良い面ばかりではなく悪い面もあることはリアルでも同じですが、リアルのほうがミスマッチは少ないはずです。ネット上でのミスマッチは、意外とミスではないこともありますから、一概には言えない不思議さも、たまにはありますが…。

 リアルではまず友達にはならないだろうと思えるような人と親しくすることができます。その関係には何ら保証や実感が伴わなくても、その「フリ」を維持することは可能なのです。リアルな関係よりも確認がしにくいためです。しかし、逆の面から見ますと、リアルな友達が果たして真の友達だと言えるかどうかも疑問になってきます。友達というのは概念で、実体があるわけではありません。その意味では、ネット上での「友達」もリアルでの「友達」も曖昧な関係であることには変わりはないことになるからです。

 ネット上での場で知り合った人達という意味では、場を共にしたことがある人程度で十分かもしれません。それ以上肉薄した関係になりにくいのは「肉」がネット上では欠けているからです。

 相手の本名も住所も年齢さえも知らない関係が、果たして友達と言えるかどうかが問題になりますが、リアルではそれを知らなければ繋がらないため必要なだけかもしれないのです。

 ネット上で知り合った人々がリアルても親しくなり、かけがえのない人間関係を続けている例は巷でよく見聞するところです。ネット上だから「軽い」というわけではないのです。それは軽いも重いもその人々の固有の問題で、人と人との関係は、当事者達のパーソナリティーとかが決めることで、ネット世界が決めるものではないからです。

 ネットはその意味で繋がりを与えてくれる重宝な仕掛けであると言えるのですが、その接触の軽さがプラス側へもマイナス側へも向かうところに、ネット関係の危なさも含まれています。

 ネット上での場で、親しい関係を維持しているにもかかわらず、歯がゆさのようなものを感じることもあります。これは口先だけではどうとでも言えるからではなく、ネット上だけでは物足りなくなるからです。つまり具体的に肉薄する歯ごたえのようなものが欠落していることに気付くのです。

 それとは逆に、ネット上でのやり取りだからこそ、身に迫る恐れがないため、適当にあしらえる気楽さをよしとするタイプもいるわけです。半ばバーチャル的な仮想世界と考え、仮装舞踏会を演じる趣で日常では味わえない世界を満喫することも可能だからです。

 ネット上での場はいくらでもあります。その人だけが持つ散歩道のようなものがあります。決して特定の場だけにとどまる必要はないわけです。これは日常の世界では、ある程度特定の場にしか身体を持っていけませんが、ネットではその「肉」が希薄なため、次々に場を変え、移動できるわけです。

 その人が、ネット上のどの場で過ごしているのかは、他の人には分かりません。その人なりの、パーソナルな周遊コースのようなものがあり、違う場では違う顔で、また違うハンドルネームで登場しているかもしれないのです。

 場に馴染むことは、その人にとって、領土を広げるような感覚になるかもしれません。それは自分の世界の拡大でもあり、掘り下げ方でもあるわけです。

 ネット上での掲示板やチャットは「荒れる」ことがあります。その場にふさわしくない人が、そのことに気づかないで、あぐらをかいて居座ってしまうかもしれません。特にマナー違反やエチケット違反でも起こさない限り、その人を「落とす」ことはできません。

 場が荒れますと、違う場を作るか、違う場へメンバー達は移動するかもしれません。また複数の場にいた人達が、一つの場に集まり、合流することもあります。いずれもこれは個人単位での展開で、誰かに命じられるとかではないのです。メインはあくまでも個人なのです。なぜなら、その個人は複数の場に所属することもありますから、一つの場での帰属意識はそれほど強いものではないからです。もっとも会員制の場などでは例外があるかもしれませんが。さらにネット上でのメンバーではなく、リアルを共有している人達は、場の帰属意識よりも、仲間意識のほうが強いでしょう。

 ネット上での儚い関係を好ましく思う人々もいます。肉薄する関係よりも、軽い言葉のやり取りをささやかに楽しむ人達です。少なくても肉体を持った普通の人が、現実のどこかに実在しているわけですから、機械を相手の会話ではありません。その時々に反応も異なるはずです。全国的に寒い日や暑い日は、「寒いですねえ」や「暑いですねえ」などの挨拶は交わすでしょう。少なくとも人間を相手にしていることではリアルと同じだからです。ただ「だから何なんだ」とかの突っ込みはそこではないかもしれません。当然挨拶程度のやり取りでは不満な人もいるでしょう。しかし、その関係が当事者達に快ければ、それで十分なのです。結局は個人をメインにした展開なのです。

●主義主張

 そのネット上での場が、親睦や和気藹々とした感じがメインですと、お互いの主義主張は奥へ引っ込められていることが多いようです。しかしマナーに関する解釈の仕方、人と接するときの「私のやり方」などは表面化します。さらにその人にとっての「虎の尾」が存在します。これは相手にとりましては「地雷」のようなもので、偶然それを踏んだばかりにきな臭い状態になることもあります。

 私にとっての「アキレス腱」も存在します。地雷や虎の尾を踏まれたときでも、それにふさわしい反応をしないこともあります。そのため、それが「触れてはいけない」事柄であるかどうかが、相手にも伝わりません。踏まれた側が過敏に反応するとは限らないからです。また、相手は「知って踏んだ」わけではない場合、悪意はないわけですから、踏まれても知らぬ顔をするのが普通でしょう。

 しかし、こちらが嫌がっている箇所を狙って踏んできた場合は、相手との関係は違ってきます。この判断は「第三の目」から見えないこともあります。それは言葉の裏や真意が表面的にはわかりにくいからです。

 相手のへの配慮をきっちりしている人と、そうでない人とがいます。問題なのは、その真意です。言葉が粗っぽく、無礼な物言いでも、そこに真摯な感情が流れている場合、寛容範囲内に入ります。それでも礼儀正しいというか、普通な感じで語っている人にしてみますと、損をしているのではないかと思うこともあるはずです。こちらは発言に配慮しているのに、相手はしていないということです。

 何らかの情報を伝えたり伝え合うとき、その人らしいものの言い方が確かに存在しますし、スタイルもあります。当然相手によって語り方が変わることもあります。これはその人のプライベートな問題ですので、それを問題にするわけにはいきません。

「私はこういう生き方しかできない」「これが私のスタイルだ」「私はこういう語り方でないと語りにくい」…などは、リアルでは可能でしょうが、ネット上では誤解を招くのではないでしょうか。実際には普通の言葉や態度で語れるはずです。そうでないと、ある意味で普通な感じになるよう努力して言葉を打ち込んでいる人の意味がなくなります。

 ネット上での異分子の多くは、語り方の努力が足りない人が多いかもしれません。語られている内容は立派でも、語り方がまずいと、語られている内容に不信感を抱くかもしれません。または、語られていることは素晴らしくても、その語り口が気に入らないため、共鳴しにくい空気にならないとも限りません。

 これは言葉に関わる問題で、一概には言えませんが、伝えたい内容があるのなら、伝わりやすく語るのが合理的だと思います。また、普通の言葉遣い、つまりわかりやすい言葉遣いでは、語りきれない内容なら、もう少し頑張って、わかりやすい言葉に直してから、書き込む方が賢明だと思います。

 ネット上でのトラブルの一つが、この言葉の使い方や、ものの言い方や、態度から起こることが多いからです。そこで語られている内容よりも、語っている人の態度や、言い方が気に入らないという現象です。これはそのまま人格を直撃します。

 ただしこれは、私的な関係や、私的な集まりの場では、さほど問題はないでしょう。相手と私的に信頼関係が得られている場合、信頼感がそれを掬い取ってくれるからです。ただ、そういう関係でのやり取りは、メールや閉鎖的掲示板やチャットなどで、やるほうが好ましいでしょう。

 人には主義主張があります。これは単に好き嫌いの問題かも知れません。または快不快だけのことかもしれません。ネット上の場に登場する人達は、当然人間ですから、何らかの好みや傾向や指向を持っています。ネット上では和気藹々とした形をとっていましても、腹の中は煮えくりかえっているかもしれません。お互いの腹の内は隠されています。たとえ、じっくりそのことについて語り合えたとしましても、腹は何段もあり、最終的には肌触りとか、感触とかのレベルでの問題になってしまいますと、それはもう語り合うという論理的なレベルでは解決しません。

 世間一般における人間模様と同じことがネット上でも起こります。なぜなら、世間一般の人がネットに接続しているからです。

●不安定な場

 ネット上の場はコミュニケーションの場としては不安定な場所です。たとえば大事な話をメールで出しても、相手が受け取ったかどうかは、一般的メーラーでは知りようがありません。パソコン通信系や、任意メーラーを相手も使用しているのなら、可能なこともありますが、なかなか同じ条件にはなりません。しかし、これは郵便の手紙でも同じですので、ネット特有のものではありません。

 しかし、メールの場合、テンポが手紙より速いようです。つまり、メールが届いてから、三日ぐらいで、返事を書かないと、遅いような感じを受けます。それは長文である必要がないため、簡単に書けると思われているからです。手紙に比べ、メールは気楽に書けますが、なぜか頼りなさを覚えるときがあります。

 掲示板などは、公開複数メール交換のような趣があります。レスの間隔は、その人がネットに繋ぐ頻度とも関係してきます。また、その掲示板にアクセスする頻度にもよります。このあたりに個人差があります。何らかの事情でネットに繋げない状況もあるわけです。それが相手に伝わらない場合、レスが遅いとか思われる可能性もあります。このあたりが、ネットの不信感にも繋がることもあるわけです。つまり、お互いの事情がほとんど見えないままの交流は、当たり前の話ですが、安定したものではありません。その気になれば、その場所へアクセスしなくなれば、その場の世界も消してしまうからです。

 ネット上では簡単に交流がスタートします。見知らぬ人との接触は新鮮なものです。それは最初だけで、徐々に飽きてくることもあります。話すことがなくなるとか、話が平行線のままだとか、それ以上突っ込んだ話題にはなりにくいとか…理由はたくさんあります。

 ネット上での場では複数の人と交流できるわけですから、次々と新たな接触が生まれます。そのため、よりレスポンスの良い相手と交流するようになったり、交流人数が多くなりすぎ、ところてん式に停滞しているような関係の人とは疎遠になることもあります。そしてこれはお互い様という感じになりますから、疎遠になることが大きな問題にはならないはずです。死んだ関係を維持する必要はないでしょう。

 気楽なチャットや掲示板は、暇つぶしで無駄話をするような感じのところもあります。もし本人が、もっと有意義な事柄を語りたいと思うのなら、それは場違いと言うことになります。こちらがネット上での関係を信頼し、より深い関係に持ち込もうとしましても、相手がそれを求めていない場合は、ただの「お披露目」だけで終わってしまいます。

 つまり、求めているものが違う関係は、ミスマッチとなるでしょう。真面目な話もするし、冗談も言い合えるような場は、逆に誤解の多い場になる可能性もあります。ネット上での場は、リアルでの場と違い、その見極めが非常に難しいと言えるでしょう。たとえば真面目で深刻な話をしているのに、からかわれたりすることもあるからです。これは相手が「心ない」のではなく、お互いの顔色が見えないためかもしれません。ネット上での場が不安定なのは、ネットに繋いでいるときの態度などが、まちまちだからです。

 ある人が、真摯にものを聞いているのに、相手は仕事を終え、一杯飲みながら、ほろ酔い気分で、それを酒の肴にしているかもしれません。態度の違いが見えないため、起こる現象でしょう。

 さらに溜め込んだストレスをネット上での人間にぶつける人もいるかもしれません。これはストレートにそのストレスを語るのなら「話」になりますが、人格を変え、現実ではできなかった役柄でネット上の人に絡んできたりしますと、相手はたまったものではありません。そこが有料のバーやスナックならお客さんですので、仕事としてお相手するでしょうが、不特定多数の人に対して、その態度で接すると、妙な問題が発生します。

 これも相手の素顔が見えないため起こる現象です。また、素顔が見えないからできることなのでしょう。

 ストレス解消にネットを利用することに関しては何ら問題はありません。ただ、その場をわきまえればよいだけです。他人のストレスにつき合うことは、聞く側にストレスが残るかもしれません。このあたりのやり取りも真意が見えないため、初心者の多くは馬鹿正直に、酒場のウダ話につき合わされます。

 ネットという隠れ蓑を使い、本人の素顔とは異なる任意の態度で、ネットの場を訪れる行為は「分裂の快さ」を味わえるかもしれません。確かにそれは、その人のパーソナリティーの一部なのでしょう。その面が現実の場では押さえられていたり、また出す機会を逸し続けているとき、ネット上で「お手軽」にそれができることなりますと、確かに楽しいかもしれません。

 そのパーソナリティーの一部が、好ましいものであるのなら、素晴らしいことですが、逆に悪意のある性癖とかですと、関係する人達を巻き込んでしまいます。それがネット不信感さえ起こすことにもなります。

 ここでも「裸の王様」はそれに気付かず、良い関係を維持でき、さらに貢献していると錯覚状態になっていることもあります。この場合は、確信犯ではなく、単に鈍いだけですので、悪意は感じません。

 精神的に病んでいることを自覚しながら、どうしようもなくネット上で危ない振る舞いに耽っている人達もいます。その人達に相応しい場なら問題はないでしょう。みなさん覚悟の上で演じているわけですから…。そうではなく、比較的ノーマルな人達が行き交っていそうな場で、病んでいる症状を投げつける人もいます。敢えて場違いな発言、または露骨な表現を使うのが、その特徴でしょうか。

「自分はこういう人間だ」という思い込みが、過剰な行為に駆り立てるのかもしれません。その場に慣れた人ならば、その「異常者」を括弧付きでつき合うか、または適当にあしらうか、または無視するかで対処しますが、何も分からない初心者や、言葉通りに受け止めてしまう人は、まともに相手になってしまいます。

 この種の無礼な世界に巻き込まれることを敢えて受け入れる人もいます。それを人生での学習の場とし、何らかの教訓を引き出したり、厄介な性癖や症状を臨床的な興味から垣間見ようとしたり、もっと単純に「刺激物」として受け入れることも有り得ます。

●ネットゲーム

 ほとんどの人は、単独でネットに参加しています。自分自身の振る舞いは、自分で決めなければなりません。これは人生ゲームにも似ています。その人のリアルでの振る舞いパターンをネット上で確かめるようなこともあるでしょう。リアルに比べ、もし失敗しても、リアルほど肉的に迫っては来ません。しかし精神的な、または生き方のポリシー的なレベルは、その人にとっては人格の中枢部に位置しています。ここを刺激されますと、ネット上とは言え、神経は尖ってしまいます。その箇所はリアルでは周辺や環境などと一体となっていますが、ネット上ではその箇所だけでのやり取りになりますから、リアルよりも無駄のない直截な展開になりがちです。

 その場での「話」よりも、自分の生き方がそのまま投影された展開となり、それは「生きる意味」や「生き方の意味」などの中枢箇所での戦いになりやすいのです。まるで、自分の人格を否定されるような言われ方をされた場合、重大な「しこり」を残す人もいます。たとえ和解したとしましても「その言葉」は残るのです。

 この種のことは、リアルの世界では回帰できることかもしれませんが、ネットでは相手の表情が見えませんし、感情の機敏も伝わりにくので、過剰な攻撃、過剰な防衛が行われたりします。要するにネットという不安定な場で追いつめていきますと、リアルより鋭利な切り口となり、深く傷つき合う関係になる可能性もあるわけです。

 ネット上での場は、そのほとんどが、それなりに関係する人達が集まっています。しかし、その場がオープンな場である場合、いつどこから人が来るかしれません。ネットトラブルの原因の一つとして、訪れてきた外来者との間で起こることが多いようです。その外来者は、その場を荒らすためにやってきたわけではないはずです。何らかの共通点を見いだし、接触してきたわけです。ところが「共通性」ほど曖昧なものはありません。何らかの形で「共通」を見つけだすのは簡単なことです。

●共通という罠

 人は人と接触する場合、共通するものを拠り所とすることが多いようです。何らかの共通項目を見いだし、それを「話の根」とする感じです。たとえば同じ職業であるとか、同じ趣味であるとかです。

 しかし、同じジャンルで共通するところが多い場ほど、そこでの違いは深刻かもしれません。ちょっとした違いで、目くじらをたてることもあるでしょうし、そのジャンル内では常識的な事柄は敢えて語らないかもしれません。

 共通すること、同じであること、などよりも、共鳴できる関係の方が、魅力があるかもしれません。共通することを見いだすのは、共鳴できるものを模索する手がかりになることもあります。最初から共鳴できるものは限られています。

 ネット上では、見知らぬ人たちが行き交います。そこでの出会いは、リアルでの日常ではあり得ないような組み合わせになります。まさにネットの海です。限られた人達だけがそこで泳いでいるわけではないからです。それだけに「共通するもの」を持っている人と遭遇すると、地獄で仏を見たような錯覚に陥るかもしれません。それほど範囲が広いため、少しでも自分と馴染める「共通するもの」が引力となるわけです。これは相手も同じかもしれません。ネット上での人との繋がりは、現実よりも薄く浅い手がかりからでしか発生しません。

●よそ者

 共通するものではなく、共通しないもの、違うものを求めて訪れる人もいます。リアルでの日常では接し得ないようなジャンルの人や、違う考え方の持ち主と、まるで「他流試合」でもするかのように接触するタイプの人です。これは、ネットの特長を生かした接し方だと思います。一種のカルチャーショックを体験できる場になります。いつも暮らしている「ぬるま湯的」「温室的」人間関係とは違う世界で自分がどこまで行けるのかを試してみることもできるわけです。

 その場合、外に向かって自分を投げ入れている感じとなります。相手がいつもの自分の守備範囲の人間ではなく、それを越えた世界となりますが、ネット上の関係であるため、それが不可能ではないわけです。

 ネット上での「ある場」に出没することは「罠を仕掛ける」ことです。これはネット上で網を張り、コンタクトしていることにもなります。その場所が閉鎖された場でない限り、大げさに言えば世界中の人達と接する機会があるわけです。実際には「その場」には見えない壁があり、よそ者が簡単に入り込めないようなバリアーが張られています。それは「その場」に書き込まれているログを見ることで、そこに加わっていいかどうかを判断することになります。ほとんどの場はそれなりの秩序があり、日本的に言えば「村」が形成されています。本当の意味でのオープンな場ではないわけです。その場に生息している常連さん達は、その秩序を暗黙裏に知っています。オープンを装いながら決してよそ者を受け付けようとしない場も存在するわけです。

 では何が「よそ者」なのでしょうか? ネットの場はいわゆる「地域社会」等の場とは明らかに地盤が異なります。ネットという軽い場なのです。うがった見方をしますと、ネットの場に来ている人達はすべて「よそ者」的色彩が強いのではないでしょうか。

 よそ者の特徴は帰属意識が低いことです。その場に常に居合わせているような常連さんでも、その場での責任意識は、さほど真剣には考えていないかもしれません。特に成り行きでできた場では、責任意識とか共同体的意識を発揮する足掛かりが曖昧です。

 しかし、そういう不安定な場でも、オフ会などが催され、リアルでの体験が加わりますと、仲間意識も地続きとなります。最初のオフ会はよそ者の集まりかもしれませんが、オフ回を重ねることにより、任意の団体に至ります。似たような趣味の人が集まる親睦の場にまで発展しますと、もうネット上での関係よりも、リアルな関係へと場を移すかもしれません。

 そうなりますと、ネット上での新たな展開よりも、すでにある団体の連絡場所となります。活動の場がオフ会やネット外でのイベントに切り替わっていくのです。そういう場に立ち寄った人達にしますと、それこそ「できあがっている場」となります。新人が、その場に馴染むには、その場の常連さんの引きが必要になるでしょう。見知らぬよそ者にとっては、大きな障壁として、常連達が立ちはだかっているような気持ちとなるようです。

 その場が、そのよそ者にとって、魅力的な場なら、何とか食いついていくでしょう。場は魅力的でも、常連達の雰囲気が気に入らない場合は、別の場を求めて立ち去るでしょう。そして、その「よそ者」は、新たな場で常連となっていくかもしれません。

 常連達も基本的には「よそ者」なのです。そのため、その場が活気を失い始めますと、他の場所を探したり、来なくなったりします。このあたりはネットは刹那的で、不安定な場であることが原因かと思われます。たとえ帰属意識を高めようとしましても、その手がかり、足がかりとなる具体的なものが最初から欠けているためです。あえてそれに代わるものが「言葉」なのです。ところが、その言葉が、リアルでの言葉とは異なっているため、過剰に丁寧であったり、過剰に荒っぽかったりする関係で、真意がつかめないのが実情です。

 試みに、オフ会などを開きますと、その本音が聞こえてきます。つまりネット上での言葉とは裏腹に、実際にはその言葉を否定的な意味で放たれていたことなどを知りますと、所詮はネット上での言葉のやりとりはバーチャルなゲームに近いものなのかと、感じてしまうほどです。

 常連達も決して、よそ者が見ているほどには親しい関係ではないこともあり得ます。ネット上ではリアルよりも「友達」になれるスピードが早いためです。これは何かが短縮され、省略されているからです。「友達」以前の「知り合い」ですらないかもしれないのです。

 しかし、ネット上での独自の填り方があります。その填り方は、リアルでの関係よりも強い結びつきとなることもあります。ネット上ではすべての関係が浅く、そして信頼できないと言い切れる方が、わかりやすいのですが、リアルを越えるほどの結びつきや信頼関係が発生することもあるわけですから、一概には言い切れない謎があるわけです。

 単なるよそ者同士の関係が、リアルでの親友や友達や知り合いの関係よりも濃厚な場合もあるわけです。それは言葉だけの関係の方が、よりシビアな接し方ができるためかもしれません。不安定なネットの場であるからこそ、丁寧に言葉を重ねたり綴ったりすることになるためでしょうか。リアルで単に飲み食いし、雑談している関係よりも、より真摯なものに向かい合える関係がネット上にはあるのかもしれません。

●チャットの波

 ネットの場には波があります。連日連夜賑わっていたチャットが、ある日急に人が来なくなったりします。偶然その場その時に居合わせた人がチャットを始め、それが習慣化し、やがて一通りの会話を終えたあたりで、対象となる人達に対しての興味を失ったり、惰性的な会話にしかならなくなったり、その他何らかのトラブルでチャットの雰囲気が変わることもあります。チャットの場も不安定だということでしょう。

 チャットを始めた頃は、チャットそのものが面白いわけですが、それに慣れてきますと、チャットの仕掛けよりも、その内容にポイントが移り、初期の好奇心だけでは満足しなくなることもあるはずです。

 チャットの持つ距離感は、リアルの人間関係とは異なり、見知らぬ人達と会話を進めることができます。そこでの関係は一過性のことが多いのが特徴です。最初は一過性の関係でも、何度も同じ人達と再会することにより、メンバーが固定することもあります。

 一過性のメリットは、人間関係を強いられる必要がないことですが、そのチャットの常連になったほうが居心地がよいこともあります。常連になることにより、そのチャットの「色」を一色加えるような感じとなります。しかし、他の人達にとりましては別の色が加わり、居心地が悪くなることもあるでしょう。オープン性の高いチャットでは、メンバーの出入りも頻繁で、流れも毎夜のように変わることもあります。

 ネット上でのチャットの場はバーチャルな面が濃厚ですが、そこに実体を求めたくなることもあります。しかし、チャットでは話しやすい相手でも、リアルではそうではないこともあります。それはチャット特有の喋り方とも関係してきますし、また、リアルでは見せないような態度でもネット上では演じられるため、印象が違うことがあるからです。

 チャットの雰囲気とリアルとは同寸ではありません。チャットでの喋り方とリアルでの喋り方が同じタイプの人でも、リアルではそこに「肉体」が加わります。「肉声」も加わります。チャットでは澄んだ声に聞こえていても、リアルでは濁っているかもしれないからです。当然その逆もあります。

 チャットに求めている目的はまちまちです。全くの見当はずれを犯している人が入ってきた場合、これは最初からボタンの掛け違いを犯してるようなものです。人には包容力や寛容力がありますから、うまくポイントを合わせていくことも可能です。

 チャットの流れに沿って柔軟に追従できる人もいます。この種の人達が見当はずれな人を導いていく感じとなりますが、それはそのチャット本来の内容とは違う展開となるかもしれません。

 チャットに浮かぶ文字列の裏に、生々しい現実を背負った御本人が存在します。その実態を知らないで、会話が進んでいくわけですが、一般常識の範囲内で収まることなら、それほど問題はありません。むしろ、相手の実態を知ったなら、話にくくなることもあります。

 常連の中にも相性があります。常連さんも、特定の相手とだけ話したいと望むこともあります。その時の会話は、密度の濃い会話になることが多いかもしれません。しかし、チャットの場ではそのときの参加者にわかるような会話をするのがエチケットです。なぜなら、当事者同士しかわからない会話は、他の参加者がついていけません。しかし、このエチケットを守り通すのは我慢が必要です。今、話したい相手がそこにおり、会話できる状態なのに、事情を知らない参加者がいるというだけで、喋れないのは不便です。この場合、他の参加者に断りを入れ、私的な会話であることを宣言することにより、可能になることもあります。または、よほどローカルすぎる話なら、秘密メッセージでの会話もよいでしょうが、その機能があるチャットに限られます。また、複数人が参加しているチャットでは、複数ネタの会話が同時進行的に並行してもよいでしょう。

 そのチャットでの初心者が、チャットに参加しているにも関わらず、なかなかログが打てないことがあります。挨拶程度のやりとりはできますが、問題はそこから先です。誰かがその人に話を振るとかで、無口な初心者に喋らせることができます。それはそのチャットの主催者である必要はありません。参加している誰かが気を利かして話を振るわけです。また主催者が常に常駐しているとは限らないからです。その場その時の状況で、臨時のマスターとなるわけです。

 きっちりとしたチャットマスターがいるチャットでは、初心者や新人の人達を無口な状態にさせないでしょう。常連さん達との橋渡し役になったりするものです。

 チャットマスターは司会役でもあり、初心者にとっては先生役です。教師でもあります。そのチャットマスターとの雰囲気がそのチャットの雰囲気を形作ることが多いようです。チャットマスターが不在の時も、常連達は、そのチャットの雰囲気をそのまま引き継ぐような感じになるはずです。なぜなら、ログが残りますから、チャットマスターが後で目を通すことになるため、現場に居合わせていなくても、チャットマスターの視線はあるわけです

●見学者の視線

 オープンなチャット室は、不特定多数の人から覗かれる可能性があります。チャットを見学している人達です。これをロムるといいます。当事者だけではなく、外部の人にもチャットでのお喋りを公開しているわけです。その意味で、公共の場に近いニュアンスとなります。そこでの会話は筒抜けです。職場の上司や、リアルでの知り合いがそれを読んでいるかもしれません。そのため、あまりプライベートな情報を書き込まないほうが賢明です。知られてもかまわないという場合でも、本人はそれでよいのですが、そこに居合わせた人達も同じように振る舞えるわけではありません。

 極端な例ですが「自分は電話番号を教えたのに、どうして相手は教えてくれないのか」などとなります。その人は言えても他の人は言えないことがあるからです。それは、その相手に対し秘密にしているわけではなく、ログを見ている人達に対して秘密にしたいこともあるわけです。一応ネット上で電話番号とかは書き込まないのが常識です。もし誰かがそれを見て悪戯した場合、その場を提供した主催者にも迷惑がかかります。

 チャット上で、プライベートな質問は控えようというのは、そういう意味です。参加しているのは当事者だけではないからです。しかし、誰もロムっていそうにない時間帯なら、かまわないように思えますが、確証はありませんし、ログファイルがある程度残りますから「流す」という方法で、消すこともありますが、ログが消されている公開チャットは、誰もいないときにきて、それを読むのを楽しみにしている人にとっては、内緒話が気になるところです。

 公開チャットである限り、公開を前提にした発言であることが好ましいようです。もし、それでは会話が弾まないというのでしたら、プライベートチャット室に移るほうがよいでしょう。これは任意の相手とだけ喋りたいときも同じことです。

●情念の場

 どの人が、どの人と、またはどの人達がどの人や人達と喋りたがっているかは非常にわかりにくい問題です。そのチャットに来ている人達は、すべてチャットを主催している主人と喋りたいわけではありません。これはその主人のキャラクタ性にもよります。そのチャットで偶然知り合った人達のほうが、主人に対してよりも、より親密な関係になりますと、主人がいないほうが、のびのびと会話が弾むかもしれません。主人は訪問者の興味や関心事の全てをフォローできるわけではないからです。

 こうして自然な感じでの「分散」が起こります。チャットメンバーは常に流動しています。新人にとっては、そこにいる人達が、百年前から居座っているかのように錯覚しますが、決して常連達も固定していないのです。

 そのチャットに居着かない人達は、つまり、常連への道を選択しなかった人達ですが、それなりに理由があるようです。それはすごく単純な理由かもしれません。つまり、そこに参加しても「気持ちの良さ」が体験できないとかです。参加する義務は全くないわけですから「様子が違う」と感じれば、とっとと出ていくのが普通でしょう。その判断は賢明です。なぜなら馴染みにくい場所に居ても、お互いに違和感やぎくしゃく関係を持ち続けるからです。自分がそのチャット室にふさわしくないと思える人は、そう感じない人よりも処理はスムーズです。

 チャットにはリアルと同じように人々の情念が渦巻いています。その情念は、表立てて言うほどのことでもなく、またそれを言い立てるのは場的にもふさわしくもありません。たとえば非情に性格の濃い人が泥臭い物言いをするからといって、マスターはその人に注意を促すようなことはできないでしょう。それは個人のパーソナリティーやキャラクタに対しての個人攻撃になるからです。相手の人格領域にまで立ち入る権限がないのは、そこは会社や学校ではないからです。チャットの主催者は、メンバーの上司ではありませんし、担任教師でもないからです。

 そのあたりがネット上での場が不安定な場である所以かもしれません。明快な目的意識や、共同体としての意識などの規範が非常に曖昧なため、そこに出入りしている人達も、はっきりとは掌握していないこともあります。そこで支配している規範は、実に曖昧なものでしかありません。

 チャット上だけの知り合いと、リアルも知っている知り合い、また、最初からリアルで知っている知り合い…等々、決して同一の条件でチャットをしているわけではありません。もし、ある人のチャットでの振る舞いをリアルで知っている人が同一チャット上に居合わせたとしますと、そのある人の本音と建て前のような使い分けを看破してしまうでしょう。しかし、そのある人と話している当人は、それに気づきません。

 チャット上ではどうしても言葉がが軽々しくなる傾向があるようです。それらの軽々しい言葉は、最初は快く響くかもしれません。しかし、そこでの言葉を保証するものは何もありません。つまり愛想でうなずいたり、肯定し、同意しても、真意である保証はないわけです。逆に真意のある言葉で喋り出すとどうなるでしょうか。本音と本音がぶつかり合い、体重を乗せた言葉のやりとりとなるでしょう。

 そして「もう眠いから落ちます」とか「電話がかかってきたから落ちます」とかで、簡単に会話は中断される可能性があります。都合が悪くなれば、「ネットの接続状態がおかしい」とか「リロードが重くて」など、いくらでも嘘を述べて、立ち去ることができます。そういう不安定な場で、体重を乗せた言葉のやりとりをするのも、また問題です。

 チャットは元来からして無駄話であってもかまわないわけです。無駄話の領域を越えだしたあたりで、軌道修正が必要なのかもしれません。

 最初は面白くてやり始めたチャットも、長く続けていくうち、どこかで不毛さに気づく人も出てきます。不毛と感じるのは、有意義な時間を使いたいと思うからでしょうか。人により価値観はまちまちです。同じ事柄を不毛だと感じる人もいれば、有意義だと感じる人もいるでしょう。語っている事柄は不毛でも、その相手と語ること、そのことが有意義だということもあり得ます。

●日常の外

 日常の中で、ほとんど外で人と話す機会がないような人の場合、チャットは貴重な場となります。誰でもよいから話し相手が欲しいという感じです。それは相手と親密になりたいとかだけではなく、話せる相手がいること事態が重宝なのです。

 自分の日常の外にいる人と接触を持てるのがネットの恩恵でしょう。日常範囲内での知り合いよりも、ネット上での知り合いのほうが多くなり、むしろネット上の人達との関係のほうが親密になることもあり得ます。そしてダイレクトに、ネット上の人達とも日常領域での接触も普通に行われるようになる可能性もあります。

 チャット上でのことは、良い悪いの判断が非常に曖昧なのは、状況が一様ではないからです。それは人が人と関係する偶然性や宿命性など、一概にはパターン化できない不思議な関係も存在するからです。むしろそのパターンからはずれたところにリアルな関係が発生するのかもしれません。

 当然、ネットを切ってしまいますと、これまでの熱い関係など、全く存在さえしなかったかのように、消えてしまうこともあります。リアルには何ら痕跡を残すことなく、ログとともに消えてしまうわけです。そのことによるメリットも確かにあります。つまり後腐れのなさです。

 チャットが「ナマモノ」なのは、そこに来てる人達も「ナマモノ」なためです。文字列の彼方に「ナマ」であるところの本体がいるわけです。それにより、チャットも生々しく、また生臭くなる側面を持っています。

 ほとんど相手のこともわからず、しかもさして興味もない相手とでも、仲良くやっているような振る舞いができることの不思議さと不審さに気付きべきでしょう。この状態はリアルの世界では何に相当するのかを考えてみましょう。

 その一つして、旅先での関係にたとえることもできます。旅先はその人にとっては異郷で、日常の範囲内ではありません。そこでの関係が、旅行から戻ってきてまで続くとは思えないでしょう。自分のことを詳細に知らせる必要もありません。自己紹介的なことといえば、相手に呼んでもらうとき、必要な名前程度です。職業や年齢などはオプションのようなものです。そこでの会話は、簡単な情報を得ることや、たわいのない世間話でしょう。その程度の関係ですと、旅行から戻ってきて、しばらくすれば、思い出しもしない人達になるかもしれません。

 しかし思わぬことで話が合い、意気投合し、お互いの連絡先を知らせ合う関係になることもあり得ます。遠い旅先で知り合った人が、結構近所の人であることもあるでしょう。

 チャットもある意味で、その距離感と似ています。チャットサイトというネット上の旅先へ毎晩のように運んでくれます。これは普通の旅行に比べ、旅先に出現する頻度が高いことです。旅費はネット接続料や電話代で、便利なサービスを利用しますと、安価にすむため、旅費がかかるという感覚は薄いでしょう。

 リアルでは距離的に遠い近いの感覚がありますが、これは時間がかかる、旅費がかかるということでしょう。ネットにアクセスするとき、それはほぼ一律となります。逆に距離的には近い場所にあるところでも、接続環境により「遠い」ではなく「重い」などの感覚となります。

●チャットのリアリティ

 リアルでのチャットは、昔からあったように思えます。たとえば「井戸端会議」です。これは、共同井戸を利用する婦人達が中心となる雑談の場として、今でも言葉の上では残っています。別に日時を決めて集まり、任意のテーマに即して会議を行うものではありません。また、町内の公園に子供を遊ばせに行き、偶然同じ目的で来ていた人達と、育児の話や世間話をするのも「井戸端会議」的です。

 江戸時代には「連」という集まりがあったようです。これは、歌舞伎役者のファンクラブであったりします。江戸時代は縦社会なのですが、そこでは身分や年齢さえ関係なく、名前も屋号で呼ぶ合うことなりますと、これはハンドルネームそのものです。複数の「連」に参加する人は、ハンドルネームも変えたようです。何処の誰だかわからない人でも、その連の趣旨に興味のある人なら、参加できるわけです。

 連はサークルのようなものですが、入会も脱会も自由だったといいます。来なくなれば、脱会した感じとなるのは、非常にわかりやすく、脱会届や宣言をする必要はありません。

 ネット上にあるチャットの場は、人が実際に来て、話を始めないと、何も起こりません。場はいくらでも作れますが、そこに集う人がいなければ、生きたチャットにはなりません。

 多くのチャットが、似たような趣旨、つまり共通する趣味に掴まりながら展開していくことが多いようです。江戸時代の「連」と違い、ネット上での「連」はリアルに顔を合わせての集まりではありませんから、バーチャル性がさらに高くなります。

 いくらそれがネット上であっても、人の動きはリアルな何かに基底を持つものです。ネットだからこそ、とか、ネット特有のとかも、それは最初だけのことで、慣れればリアルと同じように作動するものだと思います。つまりリアルでのパターンに当てはまることが多いわけです。

 ネット特有のものをあえて利用するのは、あえて言いますと悪意のある行為での隠れ蓑とか匿名性とかの利用でしょう。しかしこの罠は、ネット初心者が最初に陥る穴かもしれません。そこに悪意がなくても、ネットの特性に頼り込むことになりやすからです。

 チャットは一種の現実逃避という見方もあります。現実から抜け出すことは旅行の特性でもあります。日常空間から、ちょっと違う場所へ、顔(がん)が割れていない場所で、新鮮な自分を体験したいとかです。これも、長くとどまることにより、慣れが生じ、鮮度も落ちますし、顔も割れてきます。そうしますと、徐々にいつもの日常世界に近づいていくことになるでしょう。

 それらのことはチャットに参加する人達一人一人の目的意識によって異なってきます。とりあえずチャットの場に居たいというだけの人は、毒にもならないし薬にもなりません。自分から話題を出すわけでもなく、他の人々の会話を聞いているだけの人は、ロム者として見学席側に移ったほうが、他の人達も気配りする労から解放されます。

 そういう無口な人の場合でも、何かを書き込もうとすると、もう話題が変わっていたりとか、よく考えて返答しようと考えているうちに、タイミングを外してしまうなどの理由があるようです。これはタイプスピードの問題もあります。それはリアルで、早口で大声を出す人が、場をリードするのと同じです。また、言葉にする以上、それなりに配慮しすぎて、書き込むのに時間がかかることもあるでしょう。

 さらに複数のチャットを同時に掛け持ちでやってる人や、チャットをしながら、他のことをしている人も、反応が遅くなります。「ながらチャット」「二重窓」「内職」と呼ばれる状態です。これは、そのチャットで賢明に話を進めていこうとしている人達に対して、失礼な話です。もっとも「ながら」や「二重窓」が可能なほど、全体のペースが遅いチャットなら、問題はないかもしれません。また、きっちりと追従できれば、「ながら」も問題はないでしょう。

 チャットに参加しながら、誰かに呼ばれるまで反応しないタイプの人は「潜水艦」などと呼ばれています。放置していますと、沈んだままで、参加者名が表示されないチャットでは、居るか居ないかさえ不明です。チャットによっては無発言状態が続くと自動退出機能で弾き出す仕掛けもあります。話す気がない人が、どうしてチャットに参加するのでしょうか? 単に存在を誇示したいのでしょうか? それとも内職が忙しくて、書き込めないのでしょうか?

 ある状態がきっかけになり、一時的に潜水艦になる人もいます。それは、何らかのチャットの流れの中で、不快な発言とかが続いた場合「そういうネタに対して相手はしません」というジェスチャーによる沈黙もあります。要するに「引く」という状態です。

 または、メインになっているネタに対して、全く関心がないか、下手に答えられない場合も、沈黙しがちです。たとえば、内輪話になってしまいますと、その内輪に加わっていない人は、見守るしかないわけです。潜水艦状態の原因は、その人の態度の悪さもありますが、チャットの流れの悪さにもあります。

 ネットが不安定な場というのは、このような状態も指しています。理由が推測しにくい状態でも、憶測で判断しがちです。その時、他の人の顔色が見えませんから、個人単位で処理することになってしまいます。個人のバーチャル性、思いこみ性に掴まった状態で、ことが運んで行くわけです。

 チャットはその意味で「怪しい」ものです。嘘を言い続けることもできます。それに対し、詮索するタイミングも掴みにくいわけです。嘘かどうかの基準となるものが曖昧なためです。当然のことですが、全てのチャッターが嘘ばかり言っているわけではありません。また、嘘を言っている人も、その人にとってはある意味で本当のことなのかもしれないからです。

 ほとんどの人は、チャットで快い会話のラリーを繰り返したいわけです。リアルでの自分がうまく投影されるような、言葉が体重に重なり合うような書き込み、それは不毛なものではなく、そこはかとなくコミュニケーションがとれている関係、等々、人としての情が通い合う関係をしばしの時間過ごしたいのかもしれません。

 しかし実際にはそうはいかないわけです。個人的な話を一方的にするだけで、決して聞き役には回らない人。誰かに対してのログに横入りし、流れを中断させる人。その動きは、その個人の人柄でもあるわけですから、それを否定するわけにはいきません。オープンチャットである限り、いろいろな性格の人が来て当たり前なのです。そして、快い状態は、人柄に対するリアルなレベルで、崩れることも多いようです。このレベルになりますと、チャット特有とか、ネット特有とかの問題ではなくなってきます。リアルレベルで苦手なタイプの人は、ネットでもやはり苦手意識が働くでしょう。ただ、リアルでは、そういう苦手な人と接するのを避けたり、そういう人が居るような場には顔を出さないかもしれませんが、ネット上での場では、それが見えないことがあるのも否定できません。

 これも想像できる例ですが、ネット上で苦手な人が居るとします。実はその人とはリアルでは友達で、お互いよく知っている関係だったとします。そしてリアルでは苦手意識は微塵もなく、むしろ楽しいほどです。ところがネット上では苦手な存在になっているとします。なぜでしょうか? 仮にネット上では、お互いのことを知らないとします。実際の知り合いで、偶然ネット上で一緒になったと仮定するわけです。この場合、相手のことを知り尽くしているから、その視線が嫌だとかは仮に排除しておきます。

 そうしますと、苦手意識が発生するのは、ネット上でのその人の発言やものの言い方や、態度になります。結論を急ぎますと、苦手なその相手は、リアルではその面を出さなかっただけなのです。だから、リアルでは楽しい関係が成立していたことになります。

 さらに複雑な構図があります。先ほどの場合は、リアルなら好意的な関係なのに、ネットでは違う面も出してくるため、苦手タイプに入ってしまいました。変化したのは相手だけです。しかし、自分の変化は意外と本人には気付かないものです。こちらも、リアルでは出さないような側面を出しているため、その影響が出ているのかもしれないのです。

 そうなりますと、リアルでの友好度は、単にお互いが苦手とする面を出さずに過ごしていたことになります。では、その関係は偽の関係だったのでしょうか? それは一概には言えないでしょう。相手が嫌がるであろう、自分の嫌な面を、出さないことは、悪いことではないからです。それを出さなくなったきっかけは、その人と関係する初期の頃にあったのでしょう。その面を出したのでは、円滑な展開が望めないと思い、封印したのかもしれません。

 話はここで終わりません。つまり、そういう関係で交際していることが正しいかどうかの判断です。いつかその面が露わになることがあるかもしれないからです。しかし、そうまでシビアな関係とは、どんな間柄なのでしょうか? たとえばそれが仕事関係で、詰めた話になったときなどは問題となるかもしれませんが、気楽に楽しみを共有し合うとかの関係ですと、自分のパーソナリティーの全てを見せる必要はないはずです。

 少し荒っぽい言い方になってしまいましたが、お互いの距離感により、共有する価値観も違ってきます。また、本人の状況で、苦手だと思っているタイプの人の助けが必要になったとき、相手に価値が生じることになります。

 しかし、その種の環境の変化で、浮上する価値観とは異なり、もっと生理的に嫌悪感を抱いている苦手な人もいることは確かです。この場合は頭でわかっていても、どうすることもできないでしょう。

 こうなってきますと、チャットの問題ではなく、その人個人の問題と深く関わってきます。そのポイントとなるのは、その個人の内面的な問題ではなく、外に向かって見せる態度の問題でしょう。外に向けて投げた玉は、同時に内面にも投げ込まれる…ということもあるはずです。また、その人が見せた態度が、その人の人柄だと思われ、それにふさわしい玉が相手からも返球され、面食らうこともあるでしょう。

 そのあたりの現象は、リアルな人間関係でも、ネットでの人間関係でも大した違いはないように感じられます。なぜなら、いずれも個人から発した、その個人独自の構造が、そこでも稼働しているからです。

●チャットの言葉

 チャット上での言葉のやりとりを見ていますと、そこに何らかのパターンを見出すことがあります。その一つが「無個性的」ログです。これは、誰のログなのか、ハンドルネームを確認しないと、見分けがつかないほど、同じ調子のログとなるタイプです。たとえばAさんの発言とBさんの発言が、ほぼ同じで、ハンドルネームを入れ替えてもわからないほど似ていることがあります。

 この現象は、その人に個性がないのではなく、そういう語り方になってしまうだけかもしれません。逆に、必要以上に個性的な書き込みをする人もいます。ログを見ただけで、ハンドルネームを確認しなくても、すぐにわかるほど独自の言葉で書き込む人です。

 また、典型的なチャット語があります。テンポよくチャットを進めるためには、できるだけタイプを早くするほうが好ましいのですが、言葉を省略することでタイプが短くなり、それだけ早く反応できるようになります。チャット語のほとんどは、その種の省略語だと思えます。このあたりにチャットの本質が見え隠れしています。省略した言葉はどうしても言葉が軽くなります。これは、チャットは軽快なお喋りをする場…という側面を示しています。

 もっさりとした長台詞が普通に使われているようなチャットに、軽快な省略語で来た人は、違和感を感じるかもしれません。それはその人がよく参加するチャットでの常識とは異なるからです。当然その逆もあります。チャット語を乱用し、軽快な言葉遣いをする人が、必ずしも軽い人であるとは限りませんし、几帳面な言葉遣いの人が言葉の使い方通りの人であるとも限りません。馬鹿丁寧な言葉遣いをしながら、裏で舌を出しているかもしれないからです。これは、リアルでも重なる箇所があるはずです。

 つまり、チャットの場特有のものか、それとも個人特有のことなのか、またはその両方なのでしょうか? 少なくてもチャットだけで知り合った相手に対しましてはリアルは知る術はありません。ほとんどの人は、チャットだけ、またはネット上での遭遇でしょうから、相手のリアル面は推測の域を出ません。

 また、リアル面で関係していても、その人の実体は隠されていることもあります。逆にネット上でのその人のほうが、本来のその人に近いこともあります。

 見知らぬ人、自分のリアルでの交際範囲にはいない人のほうが、意外と本当のことが語れることがあります。これは面と向かっては言えないことでも、電話や手紙では言えるのとは、少し状態が違います。ネット上での話し相手はそこにいるのですが、その相手は非常に抽象的な対象なのです。

 初対面状態での、その種の蜜時は長く続かないことが多いのは、徐々にお互いのリアルがわかってきますと、抽象的対象だったものに具象が付きはじめ、リアルと近い関係性が出てくるため、既成の知り合いに似てくるからです。

 単に通りがかりの人に対してなら、結構無責任なものの言い方や曖昧な言い方でも通じることが多いようです。それは刹那的、一過性の、その場だけの会話であるため、互いの利害関係や、駆け引きとかは必要ではありませんし、その相手と今後何かをして行くわけでもないわけですから、聞くほうも話すほうも無責任でいられるわけです。つまり、その後のフォローがさほど必要ではないため、旅先の恥はかき捨て的な面を発揮できるわけです。

 人は人にどう思われるかを意識するものです。しかし抽象的な人が相手の場合、相手の視線が曖昧で型がはっきりしないため、気にするポイントが定めにくくなります。抽象的な人とは「人一般」のことで、「犬ではなく人である」程度の違いです。相手が犬であれば、さほど視線を気にする必要はないわけですが、残念ながら犬は言葉を持たないし、タイプも不自由なため、チャットもできません。

 このようにチャットでは態度がまちまちな人が一緒に会話するわけですから、わかったようなわからないような状態になりがちです。一応日本語で話すわけですから、お互いに言葉はわかるのですが、その言葉を発している源が曖昧なのです。言葉の真意もそうですが、それ以前の態度や姿勢も重大です。そのあたりがちぐはぐなままでもチャットは成立し、会話も成立します。極端に言えば、話したくない状態でもチャットに参加できるわけです。

 では、相手の真意を知る方法はないのでしょうか? これはリアルでの会話と同じで、その人の言葉や態度に慣れた状態でないと、掴みにくいかもしれません。それ以前に「真意」を知りたがる必要性があるかどうかです。「相手がどう思っているのか」などが真意を知りたがる動機かもしれません。それは「どう思われたいのか」という欲求があるためかもしれません。全ての言葉に対して「真意」が必要であるとは限らないと思います。

「真意」を知りたい動機として、他に考えられるのは「相手は私に対してどういう態度でいるのか」などです。これは会話の内容とは別に「この人はいつもどうしてそんな態度をとっているのだろう」とかの疑問です。会話の内容ではなく、相手の話し方、物言い対しての不信感や、また興味です。

「私はこの人や、この人達に乗せられているのではないだろうか」などもあります。妙な冗談の波に飲み込まれ、からかわれているように感じるわけです。

 これらは「普通の言葉」や「普通の会話」で語られているときには、出にくい問題かもしれませんが、チャット特有の言葉や、省略された表現、また、暗黙利に聞き返せないような発言などでも発生しやすいようです。

 たとえばこちらが丁寧に聞いているのに、相手にすっとぼけられると、馬鹿にされたような錯覚を味わいます。「こちらの態度は何だったのか」と言うことになります。この種のことはすでに馴れ合いになっている関係では、それなりの信頼関係が発生していますので、さして気にならないかもしれませんが、初対面で、いきなりそれを食らいますと、面食らうでしょう。

 ところがチャットでは初心者でも百年前からの友達のような感じのログが飛び交います。この嘘臭さに対しても面食らうかもしれませんが、一気に距離を縮めた関係で、話を進めるというのも、チャットならではの交際方法かもしれません。つまり、同じ場を共有しているのだから、仲のよい関係であることを先読みするわけです。これは相手が受け入れているわけではなく、受け入れる姿勢があることを示している程度に解釈するのが好ましいようです。わざわざ仲の悪い関係でチャットをする必要はないからです。

 言葉の使い方が悪く、また下手な人でも、悪意を感じさせない人がいます。これはなぜでしょうか? おそらくは、そこに作為的な捻りがないためだと思います。また、本人は捻っているつもりで、全く捻られていないことがわかるタイプの人も、悪意を感じにくくなります。不自然さが、不自然なまま出ているタイプは、比較的わかりやすいからです。これはまた、一種の「見下し」による安心感を得るためかもしれません。手の内が読めているという感じで、低く見ることで、納得しやすいからです。これは決して相手の人格に対して低く見ているのではありません。言葉の使い方に対しての肌触りだけの問題です。チャットではしどろもどろな話し方の人でも、リアルではきっちりと話せる人は多くいます。逆にチャットではしっかりした話し方をするのに、リアルではハチャメチャでベタベタな人もいるわけです。

 チャットで発した言葉、つまり発言ですが、自分で発したその言い方が気になり、相手を不快にしたのではないか、相手は気に病んでいるのではないか、などと考える人もいます。そういう思いやりは大事ですが、過剰な思いやりは、相手に対してではなく、自分の気持ちの問題として、尾を引くことがあります。その自分の気持ちを沈めるため、過剰な対応に出ることは、逆に問題を作ってしまいがちです。

 つまり、相手のことを気にしているのではなく、自分のことを気にしているわけです。ここから先になりますと、病的なレベルとなります。相手の反応がはっきりわからないのがネットの欠点ですが、その箇所に妄想が生まれます。疑心暗鬼となり、ネットから離れても、そのことが気になり、落ち着きを失います。これはネットがそういう状態を作っていることも事実ですが、そういう人はネット以外の日常でも、同じようなことが起こっているはずです。  本当に精神的病の人もいますが、正常な人でも、病気を装うこともあるでしょう。仮病です。その状態の人達とは、まともな会話は成立しません。不毛なチャットとなり、チャットが荒れる一因となります。しかし、相手の状態が、どういうものなのかを見分けるのは難しいため、そういう人達に対してまともに反応してしまうことが多いようです。非常にまじめで、親切で、礼儀正しい人が、そういう人に巻き込まれ、そのペースに填められることになります。これは単なる徒労となるでしょう。

 チャットは言葉だけの世界です。そのため、その言葉を何処まで額面通り、字面通り受け取ってよいのかどうかの判断に迷います。真意を探るのも、憶測と思いこみが邪魔をし、また感情面が指向を与えますので、実際にはうかがいしれないわけです。

 しかし、行間の間合いとか、ログのタイミングとかで、そこはかとなく、その人の人柄や真意のにおいをかぎ取ることはできます。このあたりは、だからこの人はこういう人なのだというような言語化以前の雰囲気として把握することになります。相手と自分との「人あたり」「肌触り」などが、活きる場所です。そこには文字しかありませんが「肌が合う、合わない」と言った、触覚的な感覚が動くようです。

 チャットでの言葉は、結局はその種のアナログ的な感性のやりとりのような気がします。同じような言葉であり文字列でも、それを発している源が、そこはかとなくうかがいしれる状態は、気持ちに伝導するでしょう。

川崎ゆきお 2001年3月4日

川崎サイト