何でもない風景
川崎ゆきお
「何でもない風景が見たい」
それが、草津老人の望みだった。
余命いくばくもなく、ではない。単なる嗜好だ。趣味と言ってもいいが、任意の分かりやすい風景とは違うため、これも説明しにくい。
山の風景が見たいならわかる。景観のいい風景もわかる。だが、何でもない風景が見たいは、カテゴリーがない。その他になる。
それに草津老人の主観は荒い。どんな風景が何でもない風景に該当するのかは、本人でしかわからない。
そのため、草津老人はそのことを誰にも言わないでいる。自分だけの密かな楽しみとしている。
だが、そんなことで楽しめるのだろうか。実はそこに秘密がある。それは、楽しめなくてもいいのだ。
何でもない風景なのだから、特に楽しくも悲しくも、辛くも、そして面白くなくてもいいのだ。
では、ふつうの風景でいいのかというと、そうではないらしい。滅多にふつうの風景などお目にかかれないようだ。どの風景も、ふつうではなく、何か構えたような演出があるという。
そうならと、草津老人に問題があるような気がする。
何でもないもの、よくあるものを探す方が、逆に難しいのだ。そんな素直な風景など、本当はないのだ。
一面の雪景色はどうだろうか。これは特殊だ。なぜなら、草津老人は雪国育ちではないので、雪景色は非常に珍しい風景となる。決して何でもない風景ではないのだ。
では、それは何なら該当するのだろう。おそらく草津老人が見慣れた風景がそれに近いのではないかと思える。
見慣れることで、何でもない風景に変わる。だから、風景が何でもないのではなく、見る側が何でもなくしてしまうのだ。
それなら、草津老人は長年見慣れた町なら該当するはずだ。しかし、探しているというのだから、それではない。
そうなると、心の風景と言うことになる。もう風景が問題なのではなく、この老人の精神状態が問題になるのだ。
では、何でもない風景として見える精神状態とはどんなものだろうか。
平穏な精神状態なら、どんな風景も何でもなく見えるかもしれない。
考えてみれば、何でもない風景を見て感動することはないように思える。何でもないのだから、無視してもかまわないわけだ。だから、探している風景に遭遇しても、それがそれだとは気づかないままなのではないか。
何でもないとは、そういうことだろう。了
2009年7月5日