視覚キャッシュ論
川崎ゆきお
谷川博士は視覚キャッシュ論を発表する手前にいた。これは仮説にすぎない。と、言うより仮説手前の思いつきにすぎない。そのため、冗談でしか語れないのだが、話してしまうと、盗まれる可能性がある。その前に笑われるだけかもしれない。
視覚キャッシュ論とは、目で見るのではなく、脳で見ていることを発展させたものだ。眼球を通さないで、見るわけだ。
これは、ふつうの話だ。目を閉じていてもものは見える。目の前のものは見えないが、映像は得られる。思い出せば、映像が再現されるのと同じだ。
ある人物を思い浮かべれば、その人の顔が出てくる。だから、眼球はインプットするための装置で、カメラのレンズのようなものだ。
それを発展させた仮説とは、どんなものだろうか。
それは、風景を見ているとき、谷川博士は思いついた。そんなことで思いつくのだから、すごいヒントが風景の中にあったわけではない。
誰でも見ている風景なのだ。
駅まで歩いたとき、その風景を見ながら、谷川博士は思いついた。
目の前のものを見ているのだが、もう、何度も見ているものは、見なくても見えるのではないかという話だ。つまり、一度見たものは記憶され、それを再現しているだけの話だと。
しかし、記憶にある映像は、映画のフィルムのように残っているとは思えない。そんな容量はないはずだ。
ここで、視覚キャッシュ論は消えたのだが、別の発想が生まれた。
それは、書き出しにあった。
フィルムとしてベタな記録はないが、その都度描写されているのではないかということだ。
これを書き出しと博士は呼んだ。その都度書き込まれていくわけだ。
では、その記憶はどこにあるのかというと、歩いているときに、記憶が作られる。それは実にインスタントに。
映像のタネのようなものがあり、それは骨組みだけの簡単な図形集のようなものだ。基本図形程度なら、容量は少ない。それさえも、即席で組み合わせて輪郭線程度の下絵はできるわけだ。
そう思いながら駅までの道を歩いていると、視界分だけ次々と描写されることになる。
そのため、見慣れた風景ほど、書き出しが早くなり、眼球を通して見ていないことが多いのではないかと、考えたのだ。
ただ、谷川博士は視覚の専門家ではなく、情報関係の学者のため、ものがどうして見えるのかという基本的な知識はない。
自分では新説だと思っていても、それは珍説で、視覚や記憶の専門分野では、あり得ない説かもしれない。
だから、谷川博士は、黙っている。了
2009年7月7日