黄泉坂
川崎ゆきお
里山ハイカーの武田は黄泉坂にさしかかった。確かに長く続く坂がある。石の道しるべに黄泉坂と刻まれている。
「そんな坂があったのかなあ」武田は来る前にネット上の地図で道を確認しているが、坂の名はなかった。また、この道の名前もない。裏山から里へ下りるための道ではなく、渓谷へ下っていく道だ。
何でもない村の里山なので、ハイキングコースではない。
里山の向こうにあるのは奥山で、まともな道はない。山にぶつかるだけで、抜けられないためだ。
武田は黄泉坂という名が気に入った。神話に出てくる黄泉の国への入り口だ。しかし本当に黄泉の国があるとは思えないし、神話とは関係なく付けた坂名だろうと思っている。
それでも、自分はこれから黄泉坂を下っていくと思うと、少し愉快な気になる。
坂は村へ戻る道ではなく、里山を横へ舐めるように走っているようだ。
武田が好んで辺鄙な山里を歩くのは、よく知られていない未加工な場所のためだ。
知られていない土俗的な、雰囲気を味わいたいのだ。
その意味で、黄泉坂の発見は的を得た感じだ。
坂を下るに従い、薄暗くなってきた。道幅が狭くなり、梢が道にかかっている。
道は平面性を失い、U字型にへこんでいる。これは道ではなく、水路かもしれない。雨が降れば、水の道になるのだろう。
徐々に湿った空気となる。
木の根が露出し、歩きにくい。目の高さにまで根が飛び出している。水で土が削られたのだろう。
さらに下ると、酸素の密度を感じる。シダが延び放題に延び、まるでジャングルのようだ。
やがて開けた場所に出た。沢に出たのだろう。
水の道なのだから、当然川に出るはずだ。川に出れば、下流へ進めば、村へ戻れるはずだ。
何かが飛び跳ねた。人の気配で虫が逃げたのかもしれない。
道は赤土になり、ぬかるんでいる。
その上に何かがいる。
先ほど飛び跳ねた虫だろうか。さらに近づくと正体が分かった。笹の葉より大きなバッタだ。
近づくと、一気にジャンプしたのか、姿が見えなくなる。どちらへ飛んだのかがわからない。
「あれっ」
武田は少し不安になる。道がないのだ。沢そのものが道だと思えばいいのだが、黄泉坂の道しるべがあった場所は道だった。人が造った道だ。それが、ここで途切れてしまった。
武田が道だと思っているのは、水が作った道なのだ。
周囲を見渡すと、そこは谷底のようだ。
ぬかるんだ赤土から砂地になる。川底かもしれない。
水がない。
しばらく雨が降っていなかったためだろうか。
風もないのに笹の葉が揺れているように見える。
「バッタ」
石を投げると、無数のバッタが飛び跳ねた。
さらに進むと、バッタがばったばったといる。
武田は思わず走り出した。その方角は下流のはずだ。
そしてあの坂は黄泉坂ではなく、バッタ坂に直した方がいいと呟いた。了
2009年7月8日