小説 川崎サイト

 

癖のある話

川崎ゆきお



「観念の奴僕になってはいけない」と、学校の先生が言っていたのを上田は思い出す。国語の授業だったように記憶している。
 高校時代になってから「すべてのことを疑え」とジャーナリストが言っていたのも思い出す。
 この言葉で「観念の奴僕になってはいけない」を疑ってもかまわないようになれた。
 すると今度は「すべてのことを疑え」に対しても疑うようになった。
 まことに言葉の意味は難しいと、上田は思う。そう思うことも疑いが生じるからだ。
 三十も半ばになると、もうそういうことは滅多に考えなくなった。
「今はわからなくても大人になればわかるときがくる」という、言葉を最近思い出す。
 しかし、昔わからなくて、今わかったことなどない。ということは、まだ大人になっていないのではないかと、そういうことを疑ってしまう。
「すべてのことを疑え」は、やはり強力で、すべてを否定できる免罪符なのだ。
 では、上田はいつも疑いながら暮らしているのかというとそうではない。疑わなくてもいいことは疑わない。疑う場合は、リスクがあるかもしれないと考えたときだ。そのため、あまり積極的な使い方ではない。
 疑うのが面倒なときは疑わない。疑うべきことでも邪魔くさいので、省略する。
 そして、疑うときは、その疑惑が楽しいときだ。実際は、こうではないのかと、想像することが楽しいのだ。
 そうすると「観念の奴僕になってはいけない」が起きあがる。
 疑うことは、妙に観念的な想像の世界であることが多いからだ。つまり、憶測だ。
 だが、上田はその憶測が好きだ。ただ、それは娯楽の一種で、人生哲学とはジャンルが違う。
 娯楽は娯楽なので、ただの潤いで、生き方とはあまり関係はない。
 友達に、以上のようなことを話したことがある。
「癖だよ。それ、上田君」
「癖」
「結局は癖なんだよ」
 この友達の口癖は「癖」で、それですべて片づけてしまう。うまい言葉を採用したと、上田は羨ましく思う。自分にはそういうトータルで片づけられる言葉がないのだ。
「君の癖論も、一種の癖なんだろ」
「そうそう」
「じゃ、癖ってなんだい」
「気づかないうちの振る舞いさ」
「じゃ、無意識の」
「いや、無意識なんてないよ。それは仮説さ。意識できないものの方が多いでしょ。それを無意識というのはおかしいんだ。ほとんどが無意識なんだから」
「じゃ、無意識はあるんだ」
「反応だよ。反応。人間を奥底で動かしているような上等なものじゃないよ。むしろ意識することで、人間はおかしくなったんだよね」
 上田は、もうそこで、話についていけなくなる。
 結局こういうことはよくわからないと言うのが、三十半ばの上田の大人の世界観になった。
 きっと友達は、それもまた癖だと言うだろうが。

   了
 
 


2009年7月13日

小説 川崎サイト