小説 川崎サイト

 

河童のいる川

川崎ゆきお



 存在する物に対してのこだわりは、問題はない。
「川に河童がいる」と、大石が言い出した。それは存在しない。社会人である大石は当然口外しない。狂っているように思われるからだ。その意味で、大石は狂っていないはずだ。
 河童は象徴だ。大石の精神面で、この河童が拠り所になっているのだろう。何が拠っているのかはわからないが、ここに河童を入れることで、安定するのだろう。
 この世に存在する趣味とか物を拠り所にしておれば、問題はない。社会生活上も問題ない。
 また、人に言えない趣味や、マニアックすぎる物への拘りでも、それほど問題はない。
「川に河童がいる」よりもだ。
 河童のいる川は大石の近所を流れる一級河川で、川幅が広い。河童がいるのは河川敷の雑草の中だ。ジャングルのようになっている。
 公園にするほど広い河川敷ではなく、雨が降れば水に浸かる。だから、整備されていない。河川敷というより、川の中だ。
 河童がいると思うことは、衝動に近い。反動かもしれない。何に対する反動なのかが曖昧で、そこがくすぶっている。何かの反動で、衝撃的行為に出るのなら、話は分かる。
 しかし大石の暮らしの中では、反動は押さえられている。無理に押さえ込んでいるわけではなく、受け入れているのだ。だから、暮らしぶりは円満だ。
 そのため、問題は解決しているのだ。
 しかし、それは、その方が賢明なので、ある意味我慢することで、得られた平和だ。
 問題となる対象はない。だから、河童なのだ。
 結局、大石は根深いストレスを抱え込んでいるのだ。そのはけ口が河童なのだ。
 大石が言うところの河童のいる川は、精神的闇の場と重なっているのだろう。
 日曜日の夕方、もう薄暗くなる頃、河童のいる川に大石は立っている。背より高い雑草の中で、じっとしている。
 河童に会いに来ているのだ。
 これが、川釣りで来ているのなら、異様さはない。犬の散歩でもいいのだ。
 しかし、大石は偽装したくない。
 本当の自分。むき出しの自分になったような雰囲気が欲しいのだ。
 もし、河童が見え出すと、危険なのだが。

   了



2009年7月14日

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