小説 川崎サイト

 

食欲の夏

川崎ゆきお



 夏の暑い日だった。どんな暑さかというと夏の暑さだ。春や秋の暑さではない。
 炎天下、石田は食欲がない。あるのだろうが、それが今一つ舌に来ない。喉にも来ない。
 そこで、ざるそばを食べることにした。これなら、何とかなる。
 その食堂は石田の家から一番近い。近いといっても自転車でしばらく走らないといけない。その途中にハンバーガー屋や牛丼屋があるが、ざるそばが食べられる場所は、その食堂だ。
 炎天下、石田はかなり厳しい状態になる。ざるそばなら食べられるしきい値が危ないのだ。
 ざるそばが崩れると、残るのはソーメンだ。ざるそばより透明感があり、ガラスの器に出てくる、あのソーメンだ。
「あの飯屋にあっただろうか」
 石田はメニューを思いだしたが、ソーメンは出てこない。あまり意識して見ていなかっただけで、あるかもしれない。
 しかし、それは賭だ。なければざるそばになる。
「果たして食べられるか」
 今の石田には、なにも口にする気力がなくなっている。その、なにもの中には水は入っていない。水は飲める。
 しかし、腹がすいているはずなので、水は圏外だ。胃に固形物を入れるのが目的だ。
 炎天下だ。
 石田は、並木の日陰ができている側の歩道へ移った。
 すると、少し暑さが弱まり、ざるそばのしきい値が安全になってきた。ソーメンまで落とす必要はない。
 石田はやっと食堂に到着する。
 ドアを開けると、冷房が快い。
 壁に貼ってある品書きを見るが、やはりソーメンはなかった。ソーメンなど、食堂で食べるようなものではなく、家庭食のイメージがある。
 石田はすっかり食欲を戻していた。冷房のおかげだ。
 石田の後から入ってきた男が有無を言わさず「天ぷらうどん」と、うどんのような太い声で注文した。
 石田は方向を修正してもいいと考えた。ざるそばなら食べられるではなく、他のものも食べられるに。
「ざるそばでは寂しいではないか」
 ぽつりと言う。
「て……」と、言いかけた。
「天丼ですか」
「いや、て……」
「天ぷら定食ですか」
 それでもいいと石田は決断した。
 決断のメッセージは簡単でよい。首を縦に振ればいい。
「はい、天ぷら定食ー」
 パートの主婦が、奥に声を届ける。
 石田が天ぷら定食を食べ切れたかどうかはわからない。

   了

 


2009年7月30日

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