ある寝起き
川崎ゆきお
蝉が鳴いている。夏だ。
もう夜が明けたようだ。
岸和田は寝床から出る。外が明るくなると起きるのが日課になっている。
寝るときは部屋を真っ暗にしている。
時計はある。壁時計だ。暗いと文字盤が見えない。だから暗いとまだ夜で、早く起きすぎたことになる。
朝を知らせてくれるのは明かりだ。窓が明るいと朝だ。
しかし、昼間ならいつも明るい。それが朝であるか昼であるかはわからない。そのため、確認のため壁時計を見る。
すると、やはり早朝だった。
しかし、蝉が鳴いているため、もう日は昇っているのだろう。できれば夜明け前に起きたかった。なぜなら日が出ると暑くなるからだ。
それなら目覚まし時計で起きればいいのだが、決まった時間に起きないといけない用事はないし、眠っているとき、無理に起こされるのはいやなようだ。
岸和田は、着替えると、散歩に出る。
やはり起きるのが遅かったことで、悔やむ。
夏の早朝とはいえ、日差しがあると暑いのだ。
いつも前後して歩いている近所の人が、戻ってきている。この人は同じ道を往復するタイプだ。
往復三十分ほどだ。そこから計算すると岸和田は三十分遅く起きてきたことになる。 これは遅刻とは言えない。約束した時間に間に合わなかったわけではないからだ。誰とも約束などしていないのだ。
岸和田は歩き出す。前を行く人は見知らぬ人だ。たった三十分の違いで、知らない人と入れ替わってしまう。
しかし、いつも同じ顔ぶれではない。岸和田は夜明け前に歩く。真っ暗ではない。日の出前だ。または、少し明るければよい。夜でなければいいのだ。ここにずれが発生する。岸和田と同じ考えの人だけと顔見知りになるようだ。
別の考えもある。それは、明るさに関係なく、ある時間から歩く考え方だ。
ずれが生じるのは、冬は遅く、夏は早くなることだ。そのため、毎日同じ時間に散歩に出ていないのだ。
しかし、今日のように、自然な目覚めで起きる場合、同じ時間に起きるとは限らない。
「昨日夜更かししたためか」
いつもより遅く起きた理由がわかった。
どちらにしても、三十分早くても遅くても、自分も世間もさほどの違いはない。了
2009年8月6日