小説 川崎サイト

 

エアーポケット

川崎ゆきお



 炎天下、武田は気が狂いそうになると感じた。それは大げさな思いだが、より強調することで、緩和させようという作戦だ。自転車で散歩中、暑さで気が狂ったというニュースはあまり聞かない。たとえ狂ったとしても、何かが起きないとニュースとして成立しない。
 たとえば倒れ込み、病院へ運び込まれるとかだ。この場合、熱中症の人が出たことになる。
 武田が気が狂いそうだと感じたのは、自分がどこへ行こうとしているのかがわからなくなったためだ。これは気が狂ったのではなく、ど忘れしたか、ぼけたかだ。
 暑さで記憶を失ったわけではない。今、自転車で走っている道に記憶はあるし、自分の家からの距離間も見えている。
 しかし、武田はエアーポケットの中に入ったような、不思議な場所を走っているような気がした。
 いつもの風景ではなく、何か一枚フィルターがかかっているような曇り方をしている。風景と自分との間に邪魔するものがあるのだ。そのため、感覚がしっくりこない。風景が空々しく見えるのだ。
 いつもなら一体感があり、風景そのものも見ていない。
 暑さで、頭の中の回線が少しゆるんだのか、しっかり接続されていないのかもしれない。
 枝道から車が鼻先を出した。武田はドキッとした。それで、少し回線がつながったのか、目的を思い出した。
 それは、運動不足なので、自転車で、適当に走り、適当なところで喫茶店でアイスコーヒーを飲むというものだった。
 だから、喫茶店へ行くのが必ずしもただ一つの目的ではない。まずは適当に走ることだった。そして、走っているときに、喫茶店に入るかどうかを決定する方針だった。
 目的が曖昧なため、目的を忘れてしまったのだ。
 武田はやっと目的を取り戻し、気も取り直して喫茶店へ向かう道を選んだ。
 そして無事、喫茶店にたどり着いた。
 翌日、雨が降り、温度が下がった。
 武田は傘を差しながら、自転車で、また散歩に出た。
 そして、昨日入り込んだエアーポケットのような場所に来た。
 別に何も起こらなかった。

   了



2009年8月12日

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