小説 川崎サイト

 

お天気爺さん

川崎ゆきお



「寒くなりましたなあ」
 お天気爺さんが今朝も呟く。年のいった天気予報士ではない。ただの隠居さんだ。そして気象に関して詳しい人でもない。いわば口癖なのだ。
 本当に天候のことを気にしているわけではないが、全く気にしていないわけでもない。低気圧が近づくと体調を崩す。といって寝込むほどではない。低気圧の影響が致命的なダメージを与えないが、それでも考慮する必要がある。
 それは、体調が悪いとき、もし低気圧が近づいていたなら、それは低気圧のせいにできる。これで、少し安心する。
 その程度のことで、天気について呟いているのだ。
 お天気爺さんは、気分が変わりやすい人ではない。つまり「あの人はお天気屋さんだから」のお天気ではない。お天気爺さんの気性と、気象とは関係はない。
「寒くなりましたなあ」と、呟くのだが、これは低い声だ。小さな声だ。そのため、道行く人には聞こえない。一メートルほどの距離でないと、聞こえないのだ。
 従ってお天気爺さんのこの呟きは自分に対しての発言だ。この場合、自分に挨拶しているのだ。
 では、お天気お爺さんは自分の中の誰に挨拶しているのだろうか。
 主体が呟いた側になく、実は「寒くなりましたなあ」の発言者は他人かもしれない。お天気爺さんが他人になりすまして、自分に挨拶しているのだ。
 お天気爺さんは「寒くなりましたなあ」と呟いただけで、その後の発言はない。ここで何らかの返事をすれば、落語になってしまう。
 他人から挨拶を受けた主体であるお天気爺さんは黙っている。それは、他人から挨拶されたことで満足しているためだ。
 つまり、誰でもいいから声をかけて欲しかったのだろう。と、思いがちだが、相手が欲しいわけではなさそうだ。
 では「寒くなりましたなあ」の呟きの目的は何だろうか。
 もし独り言なら「寒い」でよい。問いかけるような言い方をしなくてもかまわない。
 これは、世間ごっこをしているだけなのだ。急に寒くなった朝、どこかでそんなやりとりがあるはずだ。それを倣っているわけだ。
 これは話しかける相手がいないことに対する寂しさの表現ではない。挨拶ごっこをやっているだけだ。
 そこへ、同じような早朝の散歩老人が「寒くなりましたなあ」とお天気爺さんに挨拶した。
 お天気爺さんは返答しない。
 これは、どういうことだろう。
 挨拶の言葉を残し、その散歩老人は通り過ぎた。別にお天気爺さんからの返答を期待していたようには見えない。声を発したかっただけだろう。

   了

 


2009年10月10日

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