小説 川崎サイト



お吸い物

川崎ゆきお



 増子は呼び止められた。
 これから出前に出ようとしていたときだ。客はサービス定食屋を食べ終えたところだ。勘定なら義父がいる。
「この店では吸い物を出すのかね」
「はい」
 客の相手をやっている場合ではない。一見の客だし、出前は早いほうが喜ばれる。
「聞きたいんだがね」
「ちょっと急いでますので」
「じゃあ、一つだけ答えてほしい」
「早く言ってくださいな」
「みそ汁ではなく、なぜお吸い物かね。定食屋はみそ汁が似合うと思うがね」
「お父さんに聞いてください」
 増子は逃げるように表に出た。
 初老の男は、そのお父さんを呼んだ。
 奥からやせ細った亭主がゆらゆらと出て来た。普通の服装だ。
「このお吸い物なんだけどね」
「はい」
「松茸の香りがする。しかし、この季節松茸はない。この味はどうしてダシをとる?」
「それは業務秘密でして」
「そうだろう。秘密にするだけの価値ある味じゃ」
「お宅さんはどちら様ですか」
 客は自己紹介した。田岡元。料理研究家。
「紹介してもいい。このお吸い物は絶品だ。一流料亭でも、これ程の味は出せん。ご亭主が作られたのか?」
 亭主は、松茸風味のお吸い物というインスタント品を使っていた。面倒なので、これを出していたのだ。自分で作ったほうが安くつくのだが、何度も温め直すと味が落ちるし、一日に数杯しか出ない。
「どうやってこの味に至るのかを軽くドキュメントしたい。作っているところにテレビを入れてもかまわんかね」
 インスタントの紙袋をハサミで切るところなど映しても仕方がないと思い、亭主は断った。
「行列が出来る店になることもあるんだよ」
 亭主は首を振った。
「そこを何とか」
 亭主は奥へ引っ込んだ。
「何度でも来るからね」
 田岡は奥に声をかけた。
 返事はない。
 田岡は店を出た。二度と来ることはないだろう。
 亭主は、そのとき勘定のことなどすっかり忘れていた。
 
   了
 



 

          2006年05月24日
 

 

 

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