小説 川崎サイト



テレビ

川崎ゆきお



 蛭田老人は最近出歩かなくなった。足腰が弱ってきたからではない。部屋で大型液晶テレビを見ていると、あらゆる場所を見ることが出来るためだ。
 人跡未踏と呼ばれている場所にもカメラが入り、ハイビジョンの映像と臨場感あふれる音が茶の間に届く時代になっていた。
 蛭田老人は一日中テレビを見て過ごした。安楽椅子に深々と座り、ときには寝転びながら液晶に映し出される世界を見続けた。
 外に出ないと世間のことが分からなくなる……のではなく、部屋でテレビを見ているほうが遥かに世間を知ることが出来た。
 世界情勢や経済や社会問題、そして政界の動きまでも知ることが出来る。
 初老のころは寺社巡りを楽しんだが、今は行こうとはしない。テレビなら参拝客が入れない場所まで連れて行ってくれ、非公開の秘仏まで拝ませてくれる。
 蛭田はテレビと実体験の違いはよく知っていた。それは定年まで地方新聞の記者をやっていたからだ。
 現場に立たなければ物事はよく理解出来ない。だが、それは主観的な思い込みだったのではないかと思うようになった。
 第三者が事件の現場に来ても、当事者ではないため、所詮は他人事だ。
 現実を知っても真実を知ったことにはならない。
 また真実を知ったとしても、どうにもならないことがある。それが現実だ。
 春麗らかな日、蛭田は久しぶりに外に出た。運動不足が気になったからだ。
 現実の町並みはハイビジョンの解像力を遥かに越えている。物に奥行きがあり、画面も広い。広いというより、どこを見ても映像が目に入る。
 通り過ぎる子供自転車、広告を車体に張り付けたバス。揺れる新緑の葉。
 ああ、まだ現実もやっていたのかと、テレビ番組の中の一つのチャンネルのように蛭田は眺めた。
「お爺ちゃん久しぶり、お元気ですか?」
 近所の主婦が声をかける。
「あんたも、まだやってるのか」
「まだって?」
「まあ、そういうことをまだやってるんだなあ……とね」
 主婦はどういうつもりで、蛭田がそう言ったのかが分からないようだ。
 蛭田にとり、近所のこの主婦も、番組の一つなのだろう。
 
   了
 



 

          2006年05月25日
 

 

 

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