小説 川崎サイト

 

感傷散歩

川崎ゆきお




 ごちゃごちゃと雑多な場所には、そんな感じの人々がいる。
 雑多な人々は雑多な場所にいるのだが、町から雑踏が消えてる時代になると、ユニークな人が出没しにくくなる。
 雑多さは雑居ビルのような感じで、何が入っているのかわからないような場所だ。ミックスされた妙な匂いがする場所だ。
 高岡は駅裏の雑踏に入り込んだはずなのだが、空足を踏むような感慨となる。すっきり整理されてしまい、昔あったようなトタン張りの古書店や、銭湯のような映画館や、ギリシア彫刻の飾り柱があった何かの役所も消えていた。
 繁華街の中で生まれ育ったような子猫も、もう走っていない。
 駅前は公園になっており、それを取り囲むようにバス乗り場やタクシー乗り場ができている。公園には誰もいない。不法駐輪の自転車だけが雑多さのかけらのように集まっている。
 さんばと書かれた看板が、昔あり、それが産婆であることを知ったのは、この前のように感じられる。
 その横に炭屋があり、道の前が黒くくすんでいたようにも記憶している。
 高岡は青春時代、この駅裏で映画を見たり、パチンコをしたり、古書店をのぞいたり、夜行動物の檻のような薄暗い喫茶店で、豆電球の明かりで活字を追った。
 その客層は雑多の中のさらに雑で、どのジャンルに入れていいのかわからないような得体の知れない人がいた。
 高岡がここを訪れたのは、そういうややこしい人々をまた見たい思ったからだ。思うのは勝手で、思いのほとんどは叶わないものだ。
 すっかり様変わりしているのは、行く前から調べる必要もないほど分かっていたことだ。
 しかし、高岡の中では、雑多な街角は残っており、地続きだ。
 確かに地面は繋がっており、駅名も昔のままなのだが、空足を踏むようなぎこちない状態に陥ってしまう。
 見たかったのは町の風景ではなく、あのころ生息していた、雑多な人種たちだ。
 駅裏は公園になり、その周辺にあったはずの商店も消えている。
 高層マンションが建ち、その一階箇所に見覚えのある古書店の名前を発見する。
 あのトタン張りの店だ。しかし、シャッターが閉まったまま長く経つのか、埃の線が何本も走っていた。数年以上開けていないのではないかと思える。
 産婦人科の看板もあるが、あの産婆の縁者がやっているのだろうか。産婆と書かれただけで、名前の記憶はない。
 高岡は、ごちゃごちゃした、あの得体の知れぬ空気を吸いにきたのだが、完全に突き放されたことになる。
 実は、高岡も、それを分かっていて、無理とに感傷散歩に出ただけかもしれない。

   了

 


2010年1月29日

小説 川崎サイト