消えた小説
川崎ゆきお
「気分の問題かな」
小説家が語る。
「幻の小説がある」
「気分小説ですか」
編集者が聞く。
「気分小説? 君のほうがイメージが豊かだな。そんなジャンルがあるのか」
「今、作りました」
「君のほうがよほど豊かだ」
「で、気分の問題とは、何でしょう」
「それなんだがね」
「締め切りに間に合わなかったのは気分の問題なんですか」
「いやいや、締め切り日が近づくと気分的に盛り上がる。気分がいい方へ向く。今言っている気分の問題は、別の気分だ」
「いずれにしても、原稿はできていないのですね」
「聞いてくれるか」
「はい、如何様にも」
「できていたんだ」
「はい」
「だが、消えた」
「はあ」
「保存されなかったようだ」
小説家は古いワープロ専用機を指さす。
「三日前の話だ。従って締め切りの三日前に完成していた」
「ワープロが壊れたのですね」
「それは分からん。動いている。だが、三日前、書き込みに失敗した」
小説家はフロッピーを見せる。
「まだ、こんな古いのを使っているのですか」
「印刷しようとしたが、ファイルがない」
「はい」
「三日前だ。まだ時間はある。しかし同じものをもう一度書く気分になれん。話は覚えている。しかし、同じようには書けん。不思議だ。同じことが繰り返せんのだ。その気分にならん」
「はい、理由は分かりました。了解しました」
「不思議だ……思い出しながら書くのは。その消えた小説を書くときは、頭の中から世界を引きづり出した。出てきたものが世界となった。しかし、それはもう再現できんのだ。なぜならできあがっている世界のためだ。答えも過程も決まっている。それをなぞるのは大変な記憶力がいる。一度吐きだした言葉を思い出す力だ。そんなことはできん。その気にならん」
「はい、だから気分の問題なんですね」
「そういうことだ」
小説家は、その気分が直るまで、一文も書けない状態が続いたらしい。了
2010年3月4日