小説 川崎サイト

 

ある無心

川崎ゆきお




「山田さんではないですか」
「ああ、君は芝原君」
「久しぶりです先生」
 山田は教師ではない。年寄りのイラストレーターだ。当時は図案家だった。まだマッチのラベルに手書きのイラストが書かれていた時代だ。
「お元気で何よりです」
「東京へ行ったと聞いたが、里帰りかね」
「ずいぶん昔ですよ。引っ越したのは。里帰りではなく、テレビ番組で、故郷をネタにした収録があるんで、それで帰ってきたのです。でも実家はもうこの町にはないですからね。ホテル滞在ですよ。それで、番組とは関係なく、昔住んでいた町が気になって、ちょっと散歩です」
「あ、そう。テレビでよく見るよ。大活躍じゃないか」
「先生に絵の指導をしてもらったおかげです。先生がきっかけなんですよ。イラストレーターになったのも」
「そうだったね、うちの事務所によく来ていたねえ。その頃は看板もやってたから、君にもよく手伝ってもらった。覚えているよ」
 山田は汚れた作業着を着ているが、絵の具の汚れではない。髭も髪の毛も伸び放題だが、この町では絵描き屋さんとして、誰も不審には思わない。達筆なので、表札なども頼まれる。
「君の本も読ませてもらったよ。この町での青春時代の」
「ああ、それはありがとうございます」
「私が出てこないからほっとしたよ」
「ああ」
「今度映画化されるんだって」
「よくご存じで」
「ネットで偶然見つけたから」
「ここじゃ何すから、どこか飲める場所行きませんか。ご馳走しますよ」
「白菜と豆腐。高野豆腐と千切り大根」
「なんですそれ」
「最近そんなもんしか食っとらん」
「じゃ、うんといいもの食べてくださいよ」
「あのね、金でくれないかね」
「はあ」
「その飲み代で、いろいろ食材を買える。今、手元に現金がないんだ。ご馳走してもらわなくてもいいから、その分……」
「ああ、いいですよ。でもいろいろ話が」
「そうか、無理か」
 芝原は財布から万札を数枚出して、山田のポケットにねじ込んだ。
「こんな大金は」
「昔、お借りしていたのを忘れてました。今お返しします」
「私は貸した覚えは」
「忘れているんです先生」
 その日、二人は飲み明かした。
 そして、数週間後、山田へ仕事の依頼が来た。芝原が仕事を回してくれたのだ。
 山田は神に出逢った思いがした。
 
   了



2010年3月14日

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