乳母車の怪
川崎ゆきお
妖怪博士は久しぶりに妖怪が出たという話を聞き、現場へ赴いた。
博士であるゆえ収入は発生しない。ボランティアかというとそうではない。研究の為なのだ。
それが実ることで収入が発生するかもしれない。だから、不断の努力が大事なのだ。
現場は住宅街の細い通路だった。車がぎりぎり一台通れるほどで、通路に面した二軒の家に車庫があり、その車が出入りする程度だろう。だから、普段車が入り込むような場所ではない。
「乳母車かね」
「はい」
「乳母車の妖怪はあったような気がする」
「その夜は暗くて。あ、ここは特に暗いのです。外灯が少ないんですね。寝静まると電気消すでしょ。それで、暗くなるんです」
「それで、乳母車の妖怪はどんな姿じゃった?」
「いつも通るわけじゃないのですがね」
「それなら、多くの人間が目撃するだろう」
「いえ、通るのは僕で、滅多に通らないのですが、それでも他の人に比べれば、よく通る方です。別にこの通路沿いに住んでいるわけじゃないですから。通る機会は牛丼屋なんですね。夜中何か食べたいと思うことってあるでしょ。でも作るのが面倒で、それに食べたいような食材の買い置きもない。そんな機会が月に二度ほどあるかなあ」
「牛丼がどうかしたのかね」
「牛丼屋への近道なんです。ここを抜けたところに大きな通りがありましてね。そこにファミレスや牛丼屋があるんです。だから、別に牛丼屋だけの抜け道ってことじゃないんですが……。また近道というは適していません。本当は最短距離じゃないのですよ。でも車がこない道だから、そして信号がない。そういう含みでの近道なんです」
「牛丼はいいから、目撃談を」
「はい、今語っている最中ですよ」
「じゃ、牛丼と乳母車とは関係するのかね」
「しませんが、僕の事情を語ったまでです」
「で、その乳母車の妖怪の姿は?」
「乳母車が妖怪なのか、乗っている赤ちゃんが妖怪なのかはわかりません」
「赤ん坊が乗っておるのかね」
「乳母車ですからね」
「続けなさい」
「大通りの手前にさしかかるまでが暗いんです。この道ね。今は昼間だから、わかりにくいですが。そこに門があるでしょ。夜は見えないですけどね。そこの前で赤いランプがゆっくり近づいてくるんですよ。ランプは自転車の後ろにつけるような小さな赤ランプ程度です。点滅はしていません。それだけじゃなく、懐中電灯ほどの明かり、まあ、自転車の前ランプ程度の明るさですかね。都合二つの明かりです。それが近づいてくるんです」
「つまり、夜間向けの乳母車だね」
「そうでしょうね。散歩してる人が、車にひかれないように光るものをつけているような、あれに近いですよね」
「乳母車だけかね」
「いい質問です。妖怪博士。そうなんです。乳母車は誰かが押すわけでしょ。でも誰も押していない。それなのに動いているんですよ」
「君は徒歩かね」
「いえ、自転車です。ランプをつけてますからね。そのおかげで乳母車であることがわかったし、誰も後ろで押していないことも確認できました」
「坂もない。勝手に動くとなると電動か」
「いや、実に小さな折り畳み式の乳母車ですよ」
「続けて」
「ここが怖いところなんですがね」
「まだ、何か加えるのか」
「はい、赤ちゃんが笑っているのですよ」
「なに?」
「げらげら笑っているんですよ。でも声はしない」
「ほう」
「僕は怖いというより、何事だろうかと思いました」
「後から親が歩いていたりしなかったね」
「僕も最初、そう思いました。でもいません。乳母車とすれ違って、そのまま大通りまで一気に走ったのですが、親の姿はありませんでした」
「それは君、妖怪じゃなく、幽霊だよ」
「赤ちゃんの幽霊なら、何とか理解しますよ。でも、乳母車まで出ますかね……幽霊として。だいたい、乳母車は生き物じゃないでしょ」
「いやいや、物も化けるよ」
「そうでしょ。だから、幽霊ではなく、物の怪のたぐいじゃないかと」
「じゃ、これで失敬するよ。報告ありがとう」
「博士。もうこれで終わりですか……調査」
「面白い話を聞かせてもらった。感謝しますぞ」
妖怪博士は、一礼し、その場を去った。
青年は妖怪博士の後ろ姿をずっと見ている。
「本当にあった怖い話なのになあ……」
了
2010年7月2日