熱帯夜
川崎ゆきお
晩ご飯後だろうか。一人暮らしの老人が家の前に出る。
昼間は猛暑で、夜になってからも熱帯夜だ。食後体温が上がるのか、涼みに出ているのだろう。
いつもは、浴衣とも寝間着ともとれる和服で団扇一つ持ち、ソロリソロリと通りをゆく。何十年も住んでいる場所だ。近所の人とも顔見知りだ。
冬場はドテラを羽織っている。着物が好きなのだろう。
ただ、自転車で買い物に行くときは洋装だ。
この老人にとり、家の周囲は庭のようなもので、プライベート空間に近い。
次の日はさらに温度が上がり、この地域での最高記録が出た。八十年近く生きてきた老人にとっても未知の体験だ。
その夜、老人は浴衣を着ないで外に出た。
パンツ一枚だが、丈の長いパンツのため、半ズボンのようにも見える。
それでも暑いのか、その大きなパンツを臍の下まで下げている。
暑いと狂った人が出る話がある。
暑さでとんでもない行動をしてしまう人だ。
老人は今までパンツ一枚ではさすがに外に出なかった。しかし、その日は老人が体験したことのない温度になっていた。
裸の老人はよたよたと通りを歩いてゆく。いつもの食後の散歩なのだ。
さすがにパンツは脱がない。だから、狂ってはいない。
老人は通りの端まで来た。いつもはそこで引き返す。老人にとってのプライベート空間から出てしまうためだ。
通りはバス道と交差する。やや広い場所だ。そのため、風がある。
老人はいつもと違う行動に出た。
プライベート空間から出てしまったのだ。
バス道の歩道を進んだ。
車が行き交い、歩道には自転車が走っている。見知らぬ人々に裸をさらしてしまっている。
老人の住む家の前の通路では狂った人ではない。
しかし、見知らぬ人々がいる通りに出てしまうと、結界の外に出る。
老人は少しだけ、歩道を進み、そして、すぐに引き返した。
なぜなら、歩きすぎて、逆に暑くなると思ったからだ。
最終バスの乗客が老人を目撃した。
やはり、暑くて狂った人が出たのかもしれないと見たようだ。
了
2010年7月25日