小説 川崎サイト

 

偽物

川崎ゆきお




 岸本はエスカレーターを降りたところで立ち止まってしまった。スーパーのある階で、いつもはただの通路だ。だが結構広い。
 そこに靴屋が出ている。
 つまり靴屋の出店を見ただけなのだが、靴を見てしまった。靴屋なので靴を見てもおかしくはない。
 安いのだ。
 岸本は四年前靴を買った。今もそれを履いている。別にぼろぼろになっているとか、踵が斜めにちびているとかはない。決して高い靴ではなかったが、長持ちしている。
 その靴の五分の一の値段で、似たような靴が売られているのだ。
 いろいろなタイプの靴があり、どれも同じ値段だ。その安さに驚いたわけではない。この出店は過去数回目撃している。そのたびに買う気で物色するが、結局買わないで終わる。翌日寄るとまだ売っている。それで安心し、さらにその次の日にいくと消えてなくなっていた。
 そのパターンを過去数回繰り返している。
 今回岸本がわざとらしく立ち止まったのは、そのことがあってのことだ。油断していると、翌日靴屋の出店は消えている可能性がある。
 今日こそ決心し、買うべきだ。でないと、今度来たとき、もうない。
 だが、岸本のその日の物欲は低く、靴を買い換える必要性はほとんどない。そのため、説得力に欠ける。
 しかし、ここは理性を働かせ、無理にでも買って帰るべきなのだ。
「理性」
 岸本は唐突に口にした。
「理性か」
 物欲で買うのではなく、今買っておかないと、今後買える機会は滅多にない。だから、今欲しくなかっても買っておくべきなのだ」
「べきなのはいけない」
 岸本の理性はそこへきた。
 つまり、やるべきだとか、すべきだと言うときはろくなことはない。自ら進んですんなり率直に素直に行動していないことになる。
 しかし、合理的に考えればいつ消えてなくなるかわからない靴屋なのだから、見たときに買わないと、後で悔やむことになる。
「悔やむか」
 その言葉に押され、いや、自分で押し、靴箱の山の頂にある見本の靴に触れる。
 ビジネスシューズではなく、カジュアルな紳士靴だ。
 五倍の値段で買った、今履いている靴とデザイン的には同じだ。全く同じではないが、よく似ている。ビジネスシューズとの違いは、踵が当たる箇所が分厚い。従って靴擦れしにくいし、型くずれもしにくい。
 そっと甲の部分を触ると、ツルンとした感触とと同時に平均した圧力の跳ね返りが指に伝わる。
「偽皮か」
 岸本の理性がすぐにストップをかける。今買うべきよりも、偽皮をどう受け入れかの問題になっている。
 そして、理性を働かせれば、安さの理由はこれで氷解する。
 もう安さは理由ではなくなっているのだ。
 岸本は偽皮の靴を履くタイプではない。誰もそんなことは気にしないだろうが、岸本は気になる。
 それは、岸本が偽物のような人生を過ごしてきたためだ。そのため、少しでも見破られまいと、本物にこだわってきた。
 つまり、岸本のアイデンティティに関わることなのだ。
 岸本は、すぐに靴屋の出店から離れた。
 その夜、岸本は人生を組み立て直せまいかと考えた。つまり、偽皮の靴を履ける人格へと。
 朝までかかり、やっと決心した。
 そして、靴屋の出店へ向かったのだが、案の定というか、やはりというか、出店は昨日までだった。
 広い通路がそこにあった。
 
   了




2010年9月15日

小説 川崎サイト