小説 川崎サイト

 

もう一人の自分を見た

川崎ゆきお



 毎晩自転車で通っている道がある。
 そこを行き交う人々の中に自分の姿があったとすれば、どうだろう。
 自分と同じ人間が自転車で走っている。それが四つ角を走っている。だから、横の姿が見える。
 もし、もう一人の、そっくりな自分だったとした場合、それを自分だとわかるだろうか。
 おそらくわからないと思う。
 なぜなら、走ってくる自転車を認識する程度で、乗っている人までよく見ない。それがどんな人間なのか程度はわかるだろが、それ以上意識はいかない。
 また、行き交う乗り物や人そのものも見ないこともある。かなり意識的ならないと、見えてこないものだ。
 前方は見ているが、運転に集中しているわけではない。別のことを考えたり、思い出したり、またはぼんやりしているかもしれない。意識はあるが、最低限の意識だけを残して、移動していることもある。
 だから、前方を走っている自転車など見ていないことのほうが多い。視界には入っているだろうが。
 前方の自転車が自分とそっくりな人であっても、全く気づかないまま交差する可能性もある。
 だから、自分とそっくりな人間と遭遇しているにも関わらず、気づいていないことになる。
 それ以前に、そんな人間など想定外のため、最初から頭にないのだろう。
 仮に、偶然見てしまった場合、それが自分の分身だとわかるだろうか。
 自分はすでに自転車で走っている。だから、もう一人の自分が自転車で走っているはずはない。だから、自分と似た感じの人がいる程度で終わるだろう。
 これが、本当にもう一人の自分であってもだ。そこに思い至りにくい為だ。
 しかし、今自分が着ている服や、自転車とそっくりだとどうだろう。
 この場合も、それが誰であるかがわかりにくい。ただ、異様さは感じるはずだ。ただ事ではない雰囲気はわかるはずだ。
 それでも、それが自分だとは気づかないかもしれない。
 なぜなら、リアルの自分の外見を常に見ているわけではないからだ。
 といって、もう一人の自分が本当は存在し、その辺をうろうろしているということではない。
 何十年か前の自分の写真を見たとき、これは誰だろうかと思うことがある。まるで別人だ。
 リアルのほうがもう一人の自分なのかもしれない。
 
   了



2010年11月28日

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