泣き所
川崎ゆきお
巣鴨はアパートの階段をかけあがった。むき出しの鉄骨が緩く振動する。
「雨の日だと滑るなあ」
鉄骨に張り付けてある鉄板には滑り止めが刻まれているが、もうペンキも剥げ、白い物が露出している。
「これが錆びないのは、誰かが毎日靴の裏で磨いているからだ」と、よけいなことを考える。
階段をあがり、三つ目の23号室に飛び込めばいい。
巣鴨は濡れタオルをガラス戸に当て、金槌でコチンとやる。
ボロアパートのねじ込み鍵など、空き巣にとって無いに等しい。
入ると、いきなり和室があり、窓際で探偵が布団をかぶって眠っていた。
「こいつか」
探偵は熟睡しているのか、気づかない。
空き巣に入られるような探偵など、大したことはない。また、六畳一間で暮らしている探偵など、羽振りも悪いのだろう。
巣鴨は依頼主から詳しい事情は聞いていない。痛い目にあわせろというだけだ。
どの程度が痛いのかは巣鴨の判断だ。
「金槌でむこう臑をコツンといわしてやろう。これは痛いぞ」
巣鴨は掛け布団をめくり、探偵の弁慶の泣き所めがけて金槌を降り下ろそうとした。
どこかわからない場所だ。暗い。
洞窟だろうか。
少女と老婆がにらみ合っている。
「そいつは魔女だ。君の祖母ではない」探偵が後方から声をかける。
少女はその声で後ずさる。
老婆の視線が少女から探偵へ移る。
「よけいなことを」
地底から聞こえてくるような声だ。
確かにここは地下洞窟なのだから、それでいいのかもしれないが。
探偵は内ポケットからニンニクを出す。
今度は老婆が後ずさる。
少女は探偵の後ろに逃げ込む。
探偵は今度は十字架を出す。
老婆はさらに後方へ。
「わかった。もう引く」
「引く?」
「もう、この娘のことはあきらめる」
「本当だな」
「悪魔は嘘をつかない」
巣鴨が金槌を降り下ろした。
少女の前にいた探偵の後ろ姿が消えていた。
老婆はニヤリと笑う。
「何だ君は」と、探偵が言った瞬間、激痛が走った。そして臑に手を当てる。
「イタタタ」
巣鴨はネズミのような素早さでボロアパートを後にした。
「これでいいんだろ。婆さん」と、呟きながら。
こうして、他人の夢の中に入り込む夢探偵の仕事は失敗したことになる。
後日、探偵は少女の父親から報酬をもらっている。もう少女は老婆の夢を見なくなったらしい。
ニンニクが効いたのだろうか。
了
2010年12月15日