小説 川崎サイト

 

日本のソシュール

川崎ゆきお



 セルフサービスの喫茶店が町中にある。地方都市の目抜き通りに面したホテルの一階だ。地元の人が宿泊するような場所ではない。その必要が全くないからだ。この町は観光地ではない。だからビジネスホテル程度の規模なのだが、第三セクターが運営している。市民会館のようなもので、この町にも立派なホテルがあることを誇示したいだけかもしれない。
 外部から来た著名人などは、このホテルに宿泊する。市民会館で催されるイベントに有名人を呼んだときも、ここを宿にしている。
 そのホテルのロビーとセルフサービスの喫茶店は簡単な仕切りがあるだけだ。ホテルのレストランは地階にしっかりあるのだが、宿泊客がモーニングを食べるにくる程度だ。
 市民がこのホテルに立ち寄るとすれば、ロビーにあるセルフサービスの喫茶店程度で、ここには常連客がいる。近所の人だろう。
 立派なホテルなのだが、その周辺にある喫茶店よりも値段が安い。
 そこに安価な服を着た老人が毎日来ている。スーパーで一番安い衣服が、さらに半額になったようなものを着ている。時には部屋着ではないか、寝間着ではないかと思える服装の時もある。
 その貧相な老人は鞄も持っていない。だが、ひも付きのビニール袋をぶら下げている。その中に文庫本が入っている。それを読むのが日課のようだ。文庫本はカバーが掛けられているが、その断面から察するに古書だろう。黄ばみ波打っている。
 この人が誰なのかは宿泊客の方が先に気づいた。商工会議所の講演で呼ばれた古典の先生だ。
 先生によるとその老人は言語学者の角山某らしい。本も数冊出している学者だ。
 言語学といっても哲学に近いジャンルだ。
「日本のソシュールですよ。彼は」
 古典の先生が文化会館職員にそう語るのだが、ソシュールそのものを知らないようだ。
 古典の先生は万葉集がメインだが、ギリシャ神話などにも造詣が深い。
 先生は、その老人に話しかけようとしたが、その雰囲気ではない。どう見ても老後を年金だけでひっそり暮らし、一番の贅沢は喫茶店にはいること、のような風情のためだ。
 この風情と言語学とは結びつかない。
 老人はもう大学との関係もなくなり、ひっそりと暮らしているようだ。
 ちなみに、その日、老人が読んでいる文庫本は夏目漱石の「我輩は猫である」だった。
 老人によると、本は何でもかまわないようで、近くの古書店で百円になっているものなら、適当に読んでいるらしい。
 古典の先生は、自分もああいった老後を送るのかと思うと、今から身だしなみを落としていくのがいいのではないかと考えた。
 
   了


2011年5月31日

小説 川崎サイト