小説 川崎サイト

 

二本差し

川崎ゆきお



 その夜、坂田が自転車で信号待ちをしているときだ。
「この雨、ずっと降りますよ」
 小男が坂田に話しかける。
 坂田は自分に対してだとわかったのは、二文節ほど聞いてからだ。
「この雨、結局ずっと降っているんだよ」
 坂田は仕方なくうなずいたりする。無視するより安全だと思ったからだ。小男は坂田の半分ぐらいの大きさしかない。警戒するような相手でもなく、また危害を加えそうなタイプでもない。
 人は見かけによらない。それは坂田も知っている。しかし、例外的な動きを予想するほどのネタではない。信号待ちしているとき、空模様の世間話をしているだけなのだから。それにふさわしい反応をすればすむことだ。
「車はよそ見運転するしね」
 これも聞き流せた。きっと誰に対しても話しかける癖のある男なのだろう。しかし、顔見知りの多い町内ではなく、見知らぬ人が通り過ぎる繁華街なので、都会のルールがここでも適用されるはず。
 坂田は、今まで話しかけられたことはあったが、頻度は少ない。数年に一度だ。一般の通行人は決して話しかけてこない。これが婦人同士ならありうることだが、男の場合、滅多にそれはないのだ。
 その滅多に遭遇したことになる。
「降ったりやんだりで、結局細かく降っているんだよね」
 雨の解説をやりたいだけのお天気おじさんだろうか。
 坂田は横の小男をちらりと見た。自転車の上からなので、かなり見下ろす感じだ。
 それまでも視野には入っていたが、背丈程度しか認識していない。
 まず目に付いたのは、傘だった。
 傘を差していないのだ。
「見通しも悪いしね」
 小男は下げていた傘を起こし、水平に近い形で突き出した。
 坂田は驚いたが、それほど不審ではない。ありうることだと思った。
 それは傘を二本持っていたのだ。それもかなりくたびれた傘だ。
 不審ではないと思ったのは、誰かを迎えに駅まで行くのではないかと考えたからだ。
「危ないからねえ」
 つまり、傘を差したまま自転車に乗ると危ないと忠告しているようだ。
 それはよけなお世話だと坂田は思ったのだが、小男の人柄というか話し方から不快感はない。
 話はそこで途切れたのだが、小男はずっと坂田を見ている。
 何だろう……。坂田は小男の態度が解せない。危ないから傘を仕舞えということだろうか。それでは濡れるではないか。
 そのとき坂田は信号を見た。まだ赤だ。そして、前方を何となく見た。そしてやっと気づいた。
 行き交う人は誰も傘は差していない。
 雨はやんでいるのだ。
「気づかないようなので、ちょっとね」
 つまり、小男は雨は今降っていないので、傘を差す必要はありませんよと親切に話しかけてくれただけなのだ。
 坂田はすぐに傘を閉じた。
 信号が変わった。二本傘の小男は二刀流の武芸者のように横断歩道を渡って行った。
 
   了



2011年6月1日

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