小説 川崎サイト

 

広い世界

川崎ゆきお



「広い世界とは何でしょうか」
 青年が塾の講師に質問する。実は叔父さんなのだ。
「君の方が広い世界にいると思うよ」
 講師は、そういった後、煙草の煙をくゆらす。
「これは君のお母さんの写真だ。夕べ整理していたら出てきた。まだ若いだろ」
 青年は自分より年下の女性が写っている写真を見る。
「私が持っていても仕方がないから、渡しておいてくれ。用事はそれだけだ」
「あのう、叔父さん。広い世界の話なんですが」
「それは答えただろ」
「ああ、僕の方が広いってことですか」
「そうだ。君の方が広い世界に生きている」
「だから、その、広い世界って、何でしょう」
「狭い世界とは対照的な世界だ」
「でも叔父さんの方が広い世界にいるじゃないですか。僕は受験生でまだ一人前じゃないから、大人の世界知らないし」
「そうだね」
「だったら僕の方が狭い世界にいて、叔父さんの方が広い世界にいるってことですよ」
「私は学校を辞め、うろうろしている時、この塾に雇われた。しかし社員じゃない」
「ほら、いろいろ経験しているじゃないですか。僕よりもうんと広い世界ですよ」
「しかし、今は塾と家との往復だけだ」
「広い世界とは、移動距離のことじゃないでしょ」
「そうなんだが、もうほとんど世間とのつきあいはない。そして、ますます狭まっていくだろう。去年までは飲み友達と遊んでいたが、今は疎遠になっている」
「どうしてですか」
「お互い興味をなくしたんだね」
「友達なんでしょ」
「教師時代はね。それからずいぶんたつし、立場も違う」
「でも、大人の世界の方がうんと広いと思います」
「広いが行ける場所は少ないんだよ。その必要もなくなってくるしね」
「そんなものですか」
「君はこれから大学へ行き、会社へ行き、結婚し世界を広げていく。それに比べれば、私はもう減る一方だ。塾の講師も来年はないかもしれない。そうなると家庭教師でもやろうと思っているがね。どちらにしても広い世界にはいない。好きだった登山も最近はいっていない。膝を痛めてね、もう重いリュックは背負えないんだよ」
「僕もいずれそうなるのかなあ」
「見識は広がるかもしれないけどね。知っているだけの机上の話さ」
「叔父さん」
「なんだい」
「そんな話、教室で言っちゃだめだよ」
「ああ、わかってる」
 
   了


2011年6月6日

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