小説 川崎サイト

 

万が一

川崎ゆきお



「今、田中さんが来ていて、飲んでるのですが。先生も是非参加を。田中さん会いたがっていますので」
 ケータイではなく本電話に弟子の山岡がかけてきた。ケータイの番号を知らせていなかったためだろう。先生である大石は、もう先生をやっているような境遇ではない。だから、一番弟子の山岡にもケータイ番号を教えていないのだ。
「ああ、気が向いたらいくよ」
「二時間ほどまだ居酒屋にいます。僕に電話してください」
「ああ」
 大石は弟子の山岡のケータイ番号を知らない。名刺に書かれてあったように思うのだが、その名刺も、どこかの引き出しに突っ込み、すぐには出てこない。その名刺をもらったのはいつだったのかも忘れている。だから結構古い名刺だ。札入れの中にもらった名刺を入れているのだが、数が増えると厚みを増す。それで邪魔なので、抜いてどこかに仕舞ったのだろう。この行為を何度かやっている。そのたびに仕舞い込む場所が違う。山岡の名刺をどのタイミングで仕舞ったのかを忘れている。名刺を入れる場所を考えていなかったので、適当に引き出しやキャビネットに突っ込んでいる。探せば見つかるだろう。
 弟子の山岡が飲んでいるという田中は、売り出し中のイラストレーターだ。山岡よりもさらに若い。山岡は田中から仕事のおこぼれをもらおうと接待しているのだ。大石はベテランのイラストレーターだが、もう盛りを過ぎ、今はほとんど仕事をしていない。しかし、名前は知られている。山岡は大石の弟子であることを今まで利用してきた。今回もそうだろう。
 大石は迷った。いや、迷ったふりをしているのだ。答えは決まっているのだ。飲み会に行く必要はないと。
 その大石も、少しは期待がある。それは、売り出し中の田中と会うことで、何かのつてで仕事が来るかもしれない。いわば軽い営業だ。
 だが、飲み会で仕事が発生したことは一度もなかった。
 しかし、万が一と言うことがある。
 大石は小銭を入れた容器の蓋を開ける。五百円玉が三枚ある。後は百円玉数枚と、残りすべては十円玉と一円玉だ。五円玉も混ざっている。これでは交通費程度だ。
 もし、仕事の打ち合わせで、でかけなければいけないよう嬉しいことでなら、これを使える。
 今回これを使ってまで田中に会う必要はない。なぜなら、万が一の一もないためだ。万が一があるとすれば、万に一つなのだから、一万回出かけないといけない。
 一時間後、電話のベル。
「先生、どうしますかあ」
「ああ、ちょぃと体調が悪いんで失礼するよ」
「田中君、何でも大きな仕事引き受けて、手伝ってもらう人を探しているらしいんです。田中君のアシスタントではなく、代わりに書いてくれる絵描きさんです。僕、一応引き受けたんですが、先生も是非」
 山岡は小銭入れから五百円玉と百円玉を取り出した。
 
   了
    


2011年9月2日

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