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ずれる電子書籍

川崎ゆきお



 ずり落ちそうだ。いや、それまでには数日かかるだろう。
 富田は洋式便器で、それをじっと見ているわけではない。それは一瞬見るだけだ。しかし瞬間ではない。多少間がある。
 ずり落ちそうなのは電子書籍端末。持ってしまえば落ちることはない。手から話さない限り。
 端末は文庫本ほどの大きさ。薄い文庫本程度ので、重くて支えられなくなり、落ちそうになることはない。また、端末には本革のブックカバーが掛かっている。それが滑り止めになり、手から滑り落ちるようなことはない。
 ずり落ちそうなのは、一時的に置いた場所だ。
 富岡はトイレでの大便時、電子書籍と読書眼鏡を持ち込む。その二つで片手を使うため、ズボンをずらしにくい。無理すれば片手でも大事ないが、動きがよくない。気持ちのいいズボンのおろし方が出来ない。
 そのため、眼鏡と電子書籍をトイレットペーパーの上に置く。注目場所とはそこなのだ。
 ずれる、ずれ落ちる。その可能性が高まってきているのは、そこなのだ。
 トイレットペーパーは巻物だ。それを効率よく使うためのケースがある。巻物を裸のまま使うのもいいが、置き場所に困る。床のタイルに巻物を立ててもいいのだが、それは文化とは呼べない。富岡は文化にこだわる人間ではないが、決まりには従う。自分のためではなく、他の人が、このトイレに入ったとき、トイレットペーパーが裸のまま立っていると、不審がるだろう。壁側の手の届きやすい箇所に設置するのが普通だ。だから、富岡も、ステンレス製のトイレットカバーをタイルに両面テープで取り付けている。
 ずれ落ちそうなのは、このテープの吸着力が弱まり、バサリと落ちることではない。落ちるのは電子書籍と眼鏡だ。
 トイレットペーパーを使うたびに紙が減っていく。ステンレスカバーは最初水平か、またはやや上を向いているのだが、その蓋は徐々に角度が下がる。中の紙をカバーが押さえているだけなので、そうなる。
 その傾きがやばくなっているのだ。危険な斜面に近づいている。
 トイレットペーパーボックスの蓋の上に電子書籍と眼鏡をいつまで置けるかだ。
 置くといっても一瞬だ。ズボンの上げ下げや、拭き取るときだ。これは瞬間ではないので、一瞬ではない。だから、少し間がある。 富岡が電子書籍端末を買ったのはトイレットペーパーを入れ替えて間もなくのことだ。この二つのタイミングなど、意識して把握できるものではない。しかし、これは初めてのことだ。
 トイレットペーパーの上に、今まで何を乗せていたのかを思い出す。ケータイ電話を置いた記憶がある。しかし、紙が減るとずれ落ちることが分かったので、最近はトイレに入るときは持ち込まない。もし誰かからの電話待ちのおりは、ズボンのポケットに入れることにしていた。ズボンをずらすとポケットの傾きが危ない角度になるが、ズボンの生地で締め付けるような感じとなり、安全である、と確認済みだ。
 ただ、この状態からケータイを取り出すのは難しい。しかし、このポーズ中、電話がかかってきたことは一度もないため、試していない。ここは未知の領域で、経験していない世界だ。それでもおそらくねじれたようなポケットからケータイを取り出すためには、一度立ち上がらなければいけないかもしれないとは予測できた。これが毎日なら考えてしまうが、これまで一度もないのだから、想定はしても、練習はしていない。そんな練習をするほど富田は抜かりのないタイプではない。想定しているのは、トイレ中、電話がかかってくる可能性だけだ。一応そこまでは配慮している。予測しているわけだ。それ以上のフォローとなると、きりがない。
 電子書籍がトイレットペーパーの蓋からずれ落ちるかもしれないという想定は、重要度は低い。ずっとそこに置いているのなら危険度は上がるが、すぐに手に持つのだから、危険時間はわずかなのだ。それに、危険な角度になるのは紙の減り方が増したときからで、それでもある程度まで持ちこたえられる。斜面にはなっているが、レザーカバーなので、滑りにくいのだ。そこがケータイ電話との違いだ。角度の閾値にゆとりがある。
 富田はまだ体験していないが、あと一拭き分となるまで、紙が減っていても、その角度でもいけそうな気もするのだ。
 また、トイレに入ったとき、電子書籍を置く瞬間、分かりそうなものだ。ずれなければオーケイで、ずれたとしても、まだ指を離していなければ、置かなければいいのだ。
 そして、日が過ぎた。
 トイレットカバーの角度は徐々に傾きを増している。昨日と今日の違いは、紙が減った分だ。紙一重の差に近いので、一日では分からない。それが七日目になると、視覚的にも確認できるようになる。
 しかし、他にも考えることがあるため、毎日それに注目しているわけではない。電子書籍端末の代わりに、雑誌を持ち込むこともある。買ったのにぺらっとめくっただけで放置している雑誌がある。もったいないので、暇なおり、読むようにしている。しかし、いい時間帯ではなく、捨て時間に近いトイレ内に限られる。大便時間帯だけなので読む時間は限られている。だから、いっこうにページが進まない。要するにトイレ中は暇なので、何かに目を当てたいだけだ。
 その日、富岡は三日ぶりに電子書籍と読書眼鏡をトイレに持ち込んだ。便秘で便が出にくいので、長丁場になると覚悟していた。二日ほど腹が張って仕方がない。
 しかし、気張りながらの読書というのは、よい環境ではない。本の内容に対し力んで読んでいるわけではない。読む前から力んでいるのだ。
 だが、富岡はそこは心得ている。力んで出た試しなしで、逆にじっと座っているほうが素直に出ることを学習していた。そして、別に出なくてもいいと思うようにもなっている。出たほうがあとが気持ちいいに決まっているのだが、出ないものは出ないと諦めも必要なのだ。
 そして、長く座っていても、無駄にならないように、読書をするわけだ。
 トイレットカバーの傾きを富岡はそのとき意識していなかった。出るか出ないかで頭がいっぱいだったのだ。
 そして、トイレに入るなり、不用意に電子書籍と読書眼鏡をトイレットカバーの上に置いた。
 それが動いた。
 反射神経という、最後のフォロー装置が稼働し、難なきを得たが、危ないところだった。トイレットペーパは半分ほどに巻物になっていた。これで閾値を得たわけだが、どの程度が半分なのかは、しっかりした数値ではない。ロールペーパーの半分とは、どこだろうか。それに、毎回トイレに入るたびに、巻物のボリュームを確認するのも面倒だ。やはり、傾きだけで十分だ。
 いざというときは、反射神経で何とかなる。だから、富岡は傾きが危なくなっているいないにかかわらず、電子書籍端末をカバーの上に置くとき、一度動かしてみて、ずれるかどうかを見る癖を付ければいいのだ。同じ斜面でも、置いた場所によって接触面が違うため、軽く揺すってみることだ。
 しかし、今日の出来事で、富岡はもう一つの不満点が出た。大便は出ないが、不満ならいくらでも出る感じだ。
 それは、半分の減りで、傾きの限界点となると、その後、置けなくなる。つまり、安全角度に持ち込むには、新しいトイレットペーパーと変えることになる。これは出来ないだろう。取り出した半分は、どうするのか。
 方法はある。トイレットペーパーカバーを二つにすることだ。
 しかし、電子書籍のために、Wにする手間は、パフォーマンスが悪い。
 他にも方法はある。台を置くことだ。または、壁に小さな籠を付けることだ。棚を付ける手もある。また、籠を天井からぶら下げるという方法もある。
 しかし、富岡はトイレットカバーに固執した。ここが一番置きやすいいためだ。
 そして、その日、アイデアは沢山出たが大便は出なかった。
 翌日、富岡は、違った角度から解決策を見つけた。
 それは、眼鏡をかけたままトイレに入り、電子書籍端末は脇で挟む方法だった。これなら、両手が使える。
 しかし、拭くとき、眼鏡はいいが、電子書籍端末が邪魔なので、やはりどこかへ置きたい。その日は顎の下に挟んで難なきを得た。
 その翌日は、方法を変え、拭くときは口でくわえることにした。
 次の日は、腹の上に置いた。
 その方法が、一番安定していることが分かったので、それを定番とした。
 そして、トイレットペーパーが切れ、新しいのを入れたとき、角度は上を向き、安全に乗せることが出来た。
 このときの満足感は、かなりのものだった。
 
   了

 


2011年11月6日

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