小説 川崎サイト

 

鹿威し

川崎ゆきお



 有馬の隠居。または有馬の人だけで通じる人物がいる。政財界の黒幕だ。しかし、その影響力は年々落ちている。
 そこに嵯峨野の長老が訪ねてきた。こちらは文化関係の黒幕だ」
「わざわざ京都から神戸の僻地まで」
「阪急電車の乗り継ぎで大旅行でしたわ」
「それはそれは、旅の疲れ、有馬の足湯で……」
「この屋敷、温泉になっておると聞きましたけど」
「それは昔のこと。今はパイプも赤さび」
「湧いておるんのと、ちがいますんかいな」
「元湯から引いているのです。その料金が払えぬので、どうか外の無料の足湯でお願いします。もっとも最近訪ねる人も希で、実際に行った客はいませんが」
「なんや、有馬の隠居、引退ですかいな」
「もやはわしの時代ではないようで」
「では、どなたはんが今、仕切ってておりますのや」
「さあ、誰でしょうねえ。もうそんな人、いないかもしれません」
「今日お伺いしましたのは近所の学生の就職先の話でしてな。なんぞありませんやろか」
「ほほう、嵯峨野の長老がそんな細かい用事で、わざわざ」
「小遣いが欲しますのでな」
「大学の総長、簡単に入れ替えれるお方が、そんな雑魚仕事を」
「有馬はんと同じでんがな、もう私らの時代と違います」
「鎌倉の隠居も、そういうてましたなあ」
「ああ、あの軍事の」
「和歌浦の釣り人も仕事がないらしいです」
「和歌浦、どこでした」
「和歌山です」
「ああ、海運関係の」
「今、釣り船、自分で操縦してるらしいです」
「時代でんなあ」
 嵯峨野の長老は庭を見ている。雑草で覆われ、庭師はもう入っていない。
「鹿威しは」
「もうあの音は聞けません」
「そうでっか。寂しいですなあ。昔は総理が来てはりましたやろ。あんさんと総理が無言で語り合ったのは有名な話でっせ。それだけで総理が何をして欲しいのか、阿吽の呼吸で聞き取ったとか。そのとき、鹿威しだけが、かっぽーん、かっぽーん鳴っとったとか」
「ああ、あれは映画にもなりましたなあ」
「そのときいただいた特大の菓子箱、どうしましたんや」
「人に貸して、戻ってこん」
「わややな」
「そちらも、方々から年貢もらっていたじゃないですか」
「そんなんあるんやったら、町内の子供の就職斡旋なんかしまへんわいな」
「いやいや、まだまだ出番があるかも」
「そうでんなあ。それを待ちましょうか」
「近所に百均が出来たので、最近楽になったよ」
「いや、私はスーパーの閉店間際狙うてます」
「出物はありますか」
「いや、いつも似たような弁当や寿司盛り合わせで、ちょっと飽きてきましたわ」
「にぎりか。そういえば、寿司など自腹で食べたことはなかった」
「今度回転寿司行きましょうや。結構安いでっせ」
「そんな贅沢な」
 二人は歯の隙間から空気を漏らすような笑い声を出した。
 かっぽーん、かっぽーん
 そのとき、カラスがいたずらで鹿威しでシーソーごっこでもしたのか、何十年ぶりかで、懐かしい音を立てた。
 
   了


2011年11月19日

小説 川崎サイト