小説 川崎サイト

 

机上の物

川崎ゆきお



「それは何時間持ちますか」
 悠々自適。その言葉のど真ん中な暮らしぶりの沼田が尋ねている。とある喫茶店だ。
 一般の人から見れば「とある喫茶店」だが、沼田にとり、そこは行きつけの日常空間で、家庭がそうであるように、店内は家中と同じ意味が合いがある。もう馴染んで十年ほどになる。沼田はリビング代わりに通っているのだ。
 その横のテーブルに「とある客」が座っていた。人物に興味があるのではなく、テーブル上のノートパソコンに、だ。
「何時間持ちます」と尋ねたのは、とある男が蓋を閉め、鞄の中に入れようとしたときだ。つまり、出る間際だ。しかし、まだ座っている。沼田は絶妙のタイミングで尋ねたのだ。
 とある男がノートパソコンに向かっているときでは邪魔になる。また、パソコンを閉じた瞬間でもタイミングが悪い。なぜなら、とある男はまだ座っているのだ。だから、話しかけることは会話のきっかけとなる。聞きたいことはあるが、会話はしたくないのだ。
「八時間ほどです」とある男は違和感なく答えた。沼田より年下だが、その年代はもう老人の部類だ。年齢を聞いてみると、自分より年上かもしれない。
 沼田は「八時間」と聞いて、頭を何度も上下に動かした。少し頭痛がした。また、眼鏡も少しずれた。期待以上の結果を得たからだ。
「しかし、毎日充電してますよ。切れれば何も出来ませんから」
 沼田は八時間も持てば十分だと思った。
「充電時間はどれぐらいですか」
「二時間か三時間時間ほどです」
 沼田は満足した。
 そして、とある男はノートパソコンを入れた鞄のファスナーを閉めた。そして、テーブル上の煙草やライターをポケットに入れだした。非常にいいタイミングだ。それ以上の会話はしたくないためだ。
 そして、沼田は煙草に火を付け、煙幕を張るように吐きだした。
 このあたりの他者との距離感の取り方は重役時代そのものだ。部下に接するとき、いつも使っていた距離の取り方、間の取り方だ。相手との「出と入り」をよく心得ているのだ。
 とある男が立ち去った後、沼田は思惟に耽った。
「ただの物欲にあらず」
 要は喫茶店に来ても、やることがないのだ。あの男のように、テーブルの上にノートパソコンを置くことで安定が得られるような気がした。
 スマートフォンを見るには視力がない。文字の大きなパソコン画面なら何とかなる。
 あの男はタイプしていた。何かを打ち込んでいた。見ているだけではなく、タイピング作業が仕事っぽい。
 沼田は、とある男とのやり取りで上がったテンションを維持したまま家電店へ向かうことにした。
 そのテンションが氷だとすれば、溶けないうちに。
 
   了


2011年12月15日

小説 川崎サイト