小説 川崎サイト

 

鬼ごっこ電柱

川崎ゆきお



 沖山は電柱を見た。
 目があるのだから、電柱ぐらいいくらでも見られるだろう。しかし、見た電柱は特定の電柱だ。同じ電柱でも意味が違う。ただ、その意味を知っている人は少ない。知っていたとしても記憶の中にあるのかどうかは分からない。だが引き出せば出てくるはずだ。
 沖山は急に引き出されたのだ。そのきっかけは何かよく分からない。これを偶然というのだろうか。すべての偶然はなんらかの必然性がある……と言われているが、今回は気持ちの問題だろう。昔のことを思い起こす余裕が出たためだ。
 それは子供の頃の電柱で、鬼ごっこという遊びで捕まえる側が目を閉じて待機する場所が、その電柱なのだ。電柱に向かい、両手で目をふさぐ。
 ルールは、もう忘れたが、電柱だけは覚えている。ただ、その時代の木の電柱ではなくなっている。今はコンクリートの電柱だ。その周囲も様変わりし、昔の町並みは消えている。
 だから、沖山の子供時代の電柱ではないし、町ではないのだ。番地も変わり、町名変更で、町名も変わっている。当然だが、沖山も変化しているのだ。人と町が同時に変化している。だから、変化に気付かなかったのかもしれない。
 木の電柱がコンクリートに変わったときがあったはずだ。ある人突然木の棒が抜かれたはずだ。その頃沖山は電柱のことなど気にしていなかった。何か工事をしているという程度だ。
 町から完全に鬼ごっこ時代の背景が消え、かなりの月日が流れた後、思い出したのだ。
 ただ、その電柱の前でじっと立って見つめるわけではない。それこそ不審者だ。説明するだけ面倒な話だ。それにその電柱には思い出はないのだ。それはもう抜かれて無いのだし。
 しかし、場所は同じだ。同じ場に子供時代、立っていたのだ。
 それを言い出すと、電柱だけではすまなくなる。生け垣がブロック塀になっていたり、遊び場だった場所がガレージになっていたりする。それらを全部取り上げなくてはならなくなる。そして、沖山にはそこまでつきあう気はない。。
 町が変わったように沖山も変わった。そして、今の風景のほうが、沖山にとり、しっくり来る。なぜなら、もう鬼ごっこをしないからだ。
 沖山は電柱について思い出すのは、これで最後だと思った。次にまた偶然、鬼ごっこ電柱を連想する何かを見るまでは。
 
   了
 


2011年12月20日

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