書き初め
川崎ゆきお
岸本博士は昔書いた論文をデーター化するため、ワープロで打ち込んでいた。
正月の書き初めのような感じだ。
「これは私なのか」
三十年前の論文は、自分が書いたものとは思えない。ほとんど忘れているためだ。文体も違う。今なら、こんな気負った文章は恥ずかしくて書かない。そして、断定分が多い。言い切っているのだ。それ以外はないと。
論文は宗教史に関する考察で、その下書きのようなものだ。実際に論文として使っていない文章もある。
さすがに当時も、これは言いすぎではないかと思い、公にしなかった。
研究テーマは神道と仏教におけヒンズー教と仏教との関係で、日本の仏教と神道との関係が、インドの仏教とヒンズー教の関係に似ているのではないかというものだ。
ヒンズーの神々を仏教が取り込んだように、日本の神々も仏教に取り込まれている。その変換元と変換後の相違を調べ、日本に昔からある土着信仰こそが、この国の宗教の底に流れている本質ではないかと、力説している。
これが三十年前の岸本博士の考えだ。しかし、その後、そちらの方向へは向かっていない。
だが、もう大学も退職し、気ままな生活を送っていると、好きなことを書いてもいいように思え、昔の文章を読んでいたのだ。
文章は大学ノートに鉛筆で書かれていた。そのノートをワープロで打ち込んでいる。発表するかどうかはまだ考えていない。
ノートの小さな文字は読みづらい。それにかなりのくせ字で、自分で書いておきながら、読めない箇所もある。
岸本博士は宗教学者だが、信者ではない。どちらかというと無宗教で、信仰心はさほどない。また、特定宗教の専門家ではない。
つまり、彼は退職後、宗教研究家ではなく、宗教以前の信仰のようなものに興味を持つようになった。つまり、宗教とは呼べないレベルの話だ。
キーボードの近くに骨董市で買った大日如来が置かれている。鋳物で五センチほどの高さだ。安かったので買った。古いものではないが、土産物品ではない。骨董市会場までの往復交通費程度の価格だった。
老眼なので、お顔などはよく見えない。それで虫眼鏡で覗くのだが、肉眼で見るよりも神秘的だ。虫眼鏡を寄せたり引いたりしながらピントを探し、ぴたりと合ったときは気持ちがいい。
昔書いた文章に彼自身が同意するかどうかは曖昧だ。今ではそうではないと突っ込みたくなる箇所が多々ある。別の人格が書いたような感じなのだ。
岸本博士は、それをネットに上げようと考えているのだが、あらぬ誤解を招く恐れがある。
「まあ、いいか」
発表よりも、昔の自分に触れる楽しさが優先するようで、書き写していると若い頃に戻ったような気分が味わえる。
そして、名もない学者なので誰も読んではくれないだろ。そして、これは研究というより、新年の書き初めなのだ。
正月が終わると、その行為は、年寄りの手慰めになるが、その程度のものでよいと思える年になっていた。
了
2012年1月3日