小説 川崎サイト

 

幸福論

川崎ゆきお



 幸福は、不幸でないと実感がない。幸福には不幸が必要だ。そうなると、幸福になろうとするのは、不幸だからだ。つまり、幸福を願う人は、今が不幸だと言っているようなものだ。
 しかし、人は欲深い、今は幸福であり、さらにもっと幸福になりたいと望む。ただ、不幸から幸福に変化したときの感動と、幸福から、より幸福へ変化したときの感動では、それほど感動度が高くなり。コストパフォーマンスが低いわけだ。
 幸福が不幸と対で、相対的なものなら、幸福レベル4と5とでは、対ではなく、相対してもいない。同類なのだ。
 師匠は以上の持論で、教え子には幸福を目指すことの愚を諭した。そして、幸福を目的にしてはならないと。幸福はもう降伏してしまえと。
 すると教え子は幸福を否定するのは幸せな人生ではないと反論した。それに対する師匠の解答は、幸せな人生という想定が間違っていると諭した。
 教え子は、人それぞれに価値観があり、それを押しつけるのはよくない。しかも幸福を否定するような不吉な話もよくないと。
 師匠はむっとした。自分の人生観が不吉なものだと決めつけられたからだ。
 幸せも吉も、不幸せや凶と同じで、吉なる人生を送るには、凶なる日々がないと、吉が輝かないと、同じ論理で語った。
 しかし、教え子は、幸せになるためには不幸せが必要だというのが理解できない。納得できない。そして、不快感を露わにした。
 その態度を見て、師匠も不快になった。
 教え子があることに気付いた。それは、幸不幸と、快不快は同じなのか、違うのかということだ。
 師匠はそういうことだと答えた。いくら幸せでも、生理的な快不快はつきまとう。
 では、痒いという不快のとき、爪で掻けば不快は治まるが、これはしてはいけないことなのかと問う。
 師匠は面倒になり、痒いは快だと適当なことを言った。
 確かに痒いとき、掻くと気持ちがいいが、あとで、腫れたり傷ついたりする。痒いが、掻いて一瞬の快楽を得ても、あとで不快になる。だから、痒いときは、掻かないで我慢するのが解答だ。
 では、痒い不快な状態から復帰する方法は何かと問うた。
 そのうち痒みは取れると師匠は適当に答えた。
 しかし、教え子は、痒いのは我慢できないので、何とかしたいと突っ込んだ。
 それが、幸せを求めると言うことだが、不快から快に変わるのではなく、不快から普通に戻るだけなので、それを快適と感じるのは、不快があってこその快適で、やはり不快がないと快もないと答えた。
 教え子は、師匠はいつもそんなことを思いながら暮らしているのかと聞いた。
 師匠は、これは机上論で、普段は痒ければ掻くと答えた。
 教え子は実践が伴っていないので、信用できないと反論した。
 論理とはそういうものだよと、師匠は優しく諭した。
 
   了


2012年1月9日

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