小説 川崎サイト

 

導師

川崎ゆきお



「ちょっと一休みしてはいかがかな」
 地下街を歩いていた山田は妙な男から声を掛けられた。何かのキャッチャーだろうと最初思った。
「急ぎ足で通り過ぎることはない。たまには一休みし、己を振り返ることも必要。そう思わんかね」
「ああ、今休み中です。一休みじゃなく、ずっと休んでいますが。それで何か文句はありますか。休んでいますよ。休んで」
「休んでおるときこそ、己を振り返る大事な時間」
「あのう、僕を何処へ持って行きたいのですか」
「声を掛けただけじゃ。何処へも連れ去ろうとは思ってはおらん」
 山田は、この男の正体が知りたかった。
「誰です。あなた」
「導師じゃ」
「どうし」
「仏の道へ導くのが拙僧の役目。これはまあ仕事じゃな。そういう職種なんだ」
「それで、食えるんですか。その職種で」
「拙僧は寺を持っておる」
「お寺の経営も厳しいんじゃないですか」
「それは息子に任せておる」
「じゃ、隠居した坊さんなんですね」
「君はいい人だ。見込みがある。拙僧の話に耳を傾けてくれた。他の人間は邪魔そうに追い払う。聞く耳なし。その余裕なし」
「予定があるんじゃないですかね。導師と話すような」
「しかし、君は耳を傾けてくれた」
「それは、僕が暇だからですよ。今日は大きいサイズのスマートフォンの発売日なので、急いでいただけです。まあ、どうせ陳列品には人垣が出来て、手にとって見れないのは分かっていますがね」
「その用件は済ませないでもいいのか」
「はい、別に大事なことじゃないですから。ただ、少し興味があります。早く実物を見て、ブログで報告したいんです」
「あ、そう」
「だから、立ち止まるだけの余裕があっただけですよ」
「しかし、君はいい人だ。見込みがある」
「だからぁ、そうじゃなく、こんな地下通路を歩いている人は、用事があるので、止まらないだけですよ。そちらの人のほうが実際にはいい人達なんです。真面目に働いている人たちですからね」
「あ、そうなの」
「大丈夫ですか。導師さん」
「ああ、少し誤解があったかもしれん」
「じゃ、これで」
「あのう」
「キャッチャーじゃないのでしょ。用件はもう済んだはずです。声を掛けてもらってありがとうございました。御達者で」
「ああ」
 導師は確かに初心者だった。しかし、いろいろと説話集を読み、世俗の人との対話は研究していた。それらの教本が役に立たない。場所が悪いのかもしれない。
 それよりも書かれた時代が古すぎるのだ。
 そこへ、導師の息子がやってきた。
「探しましたよ、お父さん」
 今は住職をやっている息子だ。
「こんなところで、説法は無理です。帰りましょう」
「しかし、仏の御心を伝えるのが私の役目」
「はいはい」
「やっと隠居し、好きなことをやろうとしているのに、邪魔をするでない」
「お父さん。僕の名前、分かりますか。誰です」
「おまえはおまえじゃないか」
「自分の息子ですよ。いつまで度忘れしているんです」
「それは、まあいい」
「帰りの切符は買えますか」
「ああ、何とかな」
「さあ、戻りましょう」
「わしは導師じゃ」
「はいはい」
 
   了
 

 


2012年1月26日

小説 川崎サイト