小説 川崎サイト

 

仕合わせの立ち位置

川崎ゆきお


「おや、こんなところで」
 立ち食い蕎麦屋で横に来た旧友に作田は声をかけられた。ここに立っているのを見られ、近付いて来たのではなく、偶然だろう。
「あなたほどのビジネスマンが立ち食い蕎麦ですか」
「そういう君も立ち食い蕎麦かね」
「ちょいと小腹を空かせてましてね。これから商談です。僕は煙草を吸うので、腹が減ってると煙草が旨くないんですよ」
 つまり、煙草を吸うために何かを入れるということだろう。
「最近見かけませんが、どうしてました」
「今日、見かけたじゃないか」
「偶然ですよ。三年ぶりじゃないですか。噂では転職したと聞きましたが」
「ああ、転職ねえ。まあ、そんなものだ」
「しかし、あなたほどの人が、こんなところ……」
 旧友は言葉を飲んだ。パート主婦の店員が聞いているのだ。
「あ、天麩羅蕎麦」旧友が注文する。
「私と同じだ」
「いえいえ、あなたほどの凄腕じゃないですよ。私なんて、規模の小さな小商いですよ」
「いや、同じものを注文した」
「ああ、天麩羅蕎麦ですか」
 天麩羅蕎麦はすぐに出てきた。
「これって、まずいんじゃないですか。いや、味の問題じゃなく、あなたが食べるにはふさわしくない。海老なんて入ってないじゃないですか。乾燥海老でしょ。これ、ちょいと赤みがあるだけで、あとは天かすだよ」
「あのう、海老天麩羅蕎麦もありますが」パート店員が割って入る。
「あ、そうなの」旧友は無理に偉そうな声で、パートに返事した。
「いや、これはいいよ。この普通の天麩羅蕎麦は、逆に海老天麩羅蕎麦を食べると不満を感じる。こんな小さな海老で、天麩羅蕎麦だと言えるのかとね。だから、この安いタイプでいいのだ」
「それは、一興ですねえ」
「僕は、これを食べられるだけ、ましなんだ。これはおやつだよ。食費とは別だ。おまけだ。余計な間食だ。食べなくったっていい。蕎麦が食べたけりゃ、乾麺を買ってきて湯がけばいい。そちらのほうが安い。海老の天麩羅だって、スーパーでなら安いのがある。ここのよりは大きい。倍ほどある。トータルすれば、自分で買ってきて作ったほうがいい。しかし、僕はそれをしない。しないところが贅沢なんだ。そして、贅沢が出来ることが仕合わせなんだよ」
「蕎麦、のびますよ」
「いや、もうほとんど食べた。大丈夫だ」
 旧友は作田の話を聞きながらなので、蕎麦の出来など気にしていない。何か、腹に入れればいいのだから。
「それは、作田さん。事業に失敗してから得た境地ですか」
「ああ、もう大金は転がり込まない。そんな予定もないし、今後もないだろう。だから、私の主戦場は、立ち食い蕎麦屋に入れるかどうかの余裕だけの問題になっている。週に一度だ。二度は駄目だ。補給が途絶える。ライフラインが切れる。だから、週に一度だ。それが限界だ」
「あ、そうなんですか」
「君はまだ頑張っているようだが、いずれ僕のような仕合わせを味わうだろう」
「さすが相場師、予言者だ」
「それが当たれば、こんなところに立ってはいないよ。だが、外れたことが幸いした。今は、それでよかったと思っているよ」
「あのう」パート主婦がまた声をかける。
 周囲を見ると、客が急に増えたようで、カウンターが満員になっている。
「思わぬところで、長居した」
「あ、そうですねえ。出ましょう」
「その前に」作田がまだ何かありげに言う。
「何ですか」
「水を飲んでから出る」
 作田は、合成樹脂のコップを手にして、給水器へ向かった。
 
   了


2012年2月7日

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