父さんのお茶
川崎ゆきお
「これは私の文学論なのですが、聞いてもらえますか」
「うんうん」
「ありがとうございます。私が文学に目覚めたのは、お父さんのお茶でした」
「それは難解だ。いいよ。いいよ。かなりいいよ」
「はい、ありがとうございます」
「続けて、続けて。うんうんうん」
「夏の暑い日でした。あ、これは駄目ですね。夏と暑いが重なってます」
「いいよ、いいよ。それはアンチテーゼなんだ。反逆なんだ。暑い夏の何処が悪い。冷たい夏もあるんだし、夏は暑いとは限らん。丁寧でいいじゃないか。状況をしっかり把握している。つまり、平年の温度の夏だったんだ。平凡な夏だったんだ。それを言い表すため暑い夏だったには深い意味がある。神経の細やかさが出ておる」
「はい、ありがとうございます」
「うんうんうん、続けて続けて」
「お父さんがいました。私の父です。その父が冷蔵庫の前で、大きな声を出したのです。声だけで、冷蔵庫の前だと、どうして分かったかというと、冷蔵庫が開く音がしたからです。それに父は台所に行く用事は殆どなく、あるとすれば、冷蔵庫です。だから、台所からお父さんの声が聞こえたとき、それはきっと冷蔵庫の前だと思ったのです。これは当たっていました。お父さんは冷蔵庫の前にいました。私は、そっと覗いたのです。柱から目だけ出して」
「いいよいいよ、しっかり描写している。続けて、続けて」
「はい、それで、文学に目覚めたのは、次のお父さんの言葉だったのです。その大きな声の」
「何て、お父さんは叫んでいたのです」
「お父さんのお茶どうした」
「えっ」
「次の言葉は、お父さんのお茶を飲んだのは誰だ」
「うんうんうん」
「分かりますか。このニュアンスを」
「つまり、君のお父さんは冷蔵庫へお茶を飲みに行ったわけだ。しかし、冷蔵庫を開けると、お父さんのお茶がない。きっとお父さんが自ら冷やしたものだった。お父さん専用のお茶だった。それがなくなっている。そういうことだね」
「そうです。その通りです。まるで、見てきたような解説。ありがとうございます」
「うんうんうん、それで」
「父のこの真剣で、リアルな声を聞いたとき、私は、これこそが文学だと思いました。お茶なんて、どうでもいいことでしょ。人生にとり、それほど大事な局面ではない。冷やしていたお茶を、母か妹が飲んだのでしょう。私じゃありません。でも、そんなことは大した問題じゃない。なのに父は、真珠湾攻撃を命じる南雲中将と同じ態度なんです。非常に重大なことを伝えているのです」
「うんうんうん」
「大本営で、作戦会議をしているときの、あの重々しい態度と同じなんです」
「はいはいはい」
「お父さんのお茶と、真珠湾攻撃は同じなんです」
「うんうんうん」
「以上」
「え、もう終わったのかね」
「はい」
「あ、そう。お疲れ」
了
2012年2月13日