遅れてきた青年
川崎ゆきお
イラストレーターの高橋はアパートを仕事場にしていた。そこへ編集者が絵の原稿を取りに来る。
何でもない話だ。ここで分かるのは、高橋はそれほど売れっ子ではない。その証拠にアパートを仕事場にしていることだ。収入が少ないので、そんな場所しか借りられないのだ。。しかも駅から遠い。これで、高橋の地位のようなものが分かる。だが、わざわざ語るほどの珍しい話ではない。いくらでもそんな人はいるだろう。
「今から行きます」
高橋は編集者の電話を布団の中で受け取り、むくりと起き上がった。そして顔だけ洗い、仕事を始めた。
駅からアパートまでの所有時間内に書き上げる予定だ。それほど手間が掛かる大きさの絵ではない。
しかし、何も考えていないので、何をどう書けばいいのかは分からない。書き出せば早いのだが、書くものが決まっていないのだ。
駅からアパートまでは歩いて三十分。その間には書けない。いくらアイデアが出来ており、すぐに書けるとしても無理だ。最低一時間はかかる。
高橋は適当に書き出した。下絵なしで、いきなり、適当にペンを走らせた。テーマは決まっているが、何を書いていいかは自由だ。最悪の場合、抽象画にしてしまえばいい。何とでも取れるように。
そう決心すると、書くのは早かった。しかし、三十分では無理だ。
「仕事場近くまで来てます。いつもの喫茶店で待ってます」
「あ、もう少し、待ってもらえますか」
「いいですよ」
この電話で、もう三十分時間ができた。都合一時間で、間に合う。
高橋はいつものパターンに持ち込めた。
そして、三十分後、イラストは完成し、それを封筒に入れ、アパートを出た。喫茶店はすぐ近くにある。五分ほどの距離だ。この五分は考えなくてもいい。誤差内のためだ。三十分遅くなると、三十五分遅くなる。の差は、殆ど変わらないからだ。
「今、向かっています」
「はい、お疲れ様です」
念のため、一本入れておいた。これで完璧だ。特に問題なく原稿の受け渡しが出来る。
だが、ここからが不思議なのだ。
高橋は喫茶店に入ったのだが、編集者がいないのだ。狭い店なので、すぐに分かるはずだ。トイレにでも行ってるのかもしれない。しかし、それらしいテーブルはない。鞄を持って入ったのかもしれない。いや、それ以前にテーブルの上に何かあるはずだ。つまり食器だ。コーヒーか何かを飲んでいたはずだ。ところが、どのテーブルにも、それらしいものはない。
客は誰もいない。店のお爺さんがテレビを見ているだけだ。高橋が入って来たのにまだ気付かないようだ。
高橋は、無理に床をきしませながら、足音を無理に立てた。さすがにお爺さんは気付いた。
「いらっしゃい」」
「来てませんでしたか?」
「何がですか」
「連れがいるんですが」
「さあ、朝の常連客が帰ったあとは、誰も来ませんよ。ランチタイムまで、客は来ないはずです」
高橋は電話した。
「もしもし」
「あ、まだですか」
「いや、来てますよ」
「見えませんが」
「どこにいます」
「先生のアパート近くの喫茶店です」
「アジサイですよね」
「そうです。アジサイです」
「おかしいですねえ」
「そうですねえ」
高橋はお爺さんの店の名を確認するまでもなく、この近くに喫茶店など、ここ一店しかないのだ。また、駅周辺に、喫茶店があったとしても、アジサイという同じ名前の店など、あり得ない。
「アジサイって、他にあります?」高橋はお爺さんに念のため聞いた。
「そりゃまあ、全国探せばあるやもしれんわなぁ」
「この近所は」
「近所に喫茶店はない」
「分かりました」
「それで……」
「何ですか」
「ご注文は」
「ああ、コーヒーでいいです」
「まだ、モーニングやってますが、付けときますか」
「ああ、いいです、いいです」
「コーヒー、ホットですかな。アイスですかな」
「ああ、何でもいいです」
「じゃ、アイスが早いから、そっちにしますか」
「はいはい」
「あのう」
「何ですか」
「シロップ、入れておきますか」
「はい、入れて、入れて」
「生クリームは」
「もういいから、入れて入れて」
「はい」
高橋はもう一度電話をかけようとしたとき、ドアが開いた。
編集者だった。
「ちょっと早く来すぎたので、この辺散歩してました」
編集者は額から汗を出し、息も荒い。
彼もまた遅れて、言い訳をいろいろ労していた痕跡、ありありだった。
了
2012年2月16日