小説 川崎サイト

 

霊魂の謎

川崎ゆきお


 行きつけの喫茶店。そのドア。
 もし、そのドアを開けたとき、別の世界にワープしたとすればどうだろう。
 何がどうだろうかは、やや疑問だが、いつもの喫茶店ではなく、別の喫茶店になっていたとすれば、まだ理由は分かる。一晩で改装したのだ。しかし、それでは大した変化はない。一晩分の仕事量のため、全く別の店に見えるほどの工事ではないはず。
 ここまでは物理現象で、あり得ることだ。
 ただ、その店に毎日通っていたのなら、何らかの情報を得られるはずだ。常連客なら、一言、工事の話を話してくれるはずだ。
 そのドアが木のドアで、窓もなく、ドアのこちらからでは店内が見えないため、開けるとワープするような感覚の可能性が出てくる。窓があり、またはドアがガラスだと、ワープできない。視界を防いでいないため、中は隠されていないためだ。
 つまり、開けると、見えなかったものが見える状態が、ワープの条件だ。
 ただ、店内が昨日とは違う場合でも、それほど迫ってくることはない。自分との関わりがないためだ。
 店内はそのままで、いつものようにドアを開けると、ある人物が座っているケースもある。あくまでも仮定だ。
 一番怖いのが、自分が座っていることだ。この錯覚はよくある。非常に自分と似ている人や、顔や体型が似ている兄弟が偶然座っていたときだ。
 そのとき、自分と似た人がいるとは思わないで、自分がいると飛躍してしまうのは、意外と飛びやすい距離のためかもしれない。
 離婚はあるが離魂という言葉は、専門用語、あるいは俗語かもしれない。普通の日本語変換では、出てこない言葉だ。だから、社会性の低い言葉に違いない。
 自分が自分自身を見てしまう。これは、死の前兆だと言われている。または、視座記憶のずれで起こる。そのため、自分の後ろ姿は、データーが少ないため、正面が多い。また、後ろ姿だけでは、誰だか分からないので、自分自身を見たことにはならない。
 視座記憶とは、自分の視点元を目から離すことが出来る。これは合成できる。ただ、目でものを見ていると思い込んでいるため、空中に視座があると、これは、自分自身を見ていることになる。
 大久保博士は、ここまで考えたのだが、どうも、魂が抜けて、自分自身を見ているのではないかという解釈から逃れきれないでいる。
「博士、全て脳内での出来事なのですよ」と、助手が言うのだが、それでは面白くない。
「じゃ、博士は霊魂の存在を信じるのですか」
「そうじゃないが、目に見えぬ物質。あらゆる計器でも確認できない何か、それはいろいろ知られている」
「それは宇宙規模の話ですね」
「それが、霊魂と呼ばれている正体ではないかとね」
「凄い飛躍ですねえ。中間が一切ないじゃないですか」
「この指とこの指の間。ここにも何かがおるのだよ」
「はいはい」
「ああ、分かった。これ以上は言わんさ」
「そうですよ。それでおかしくなった人いますからね」
「そうだね」
 
   了

   


2012年2月20日

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