小説 川崎サイト

 

快不快の原則

川崎ゆきお


 同じ意見の持ち主とは気が合う。それは当たり前の話で、自分が自分を好きになるのに近い。いわゆる自己愛だ。他人は自己ではない。だが、他人の中に自己を見いだすと、これは、意見の一致、趣味の一致、好みの一致で快適な人間関係が生まれる。
 だが、池端は、それでは共有していない箇所を出せなくなるのではないかと思った。また、同じ意見の持ち主でも、若干の違いがある。ここが棘のように不快だ。最初から意見が合わない相手のほうが、いっそ楽ではないかと感じることもある。
 下手に同類ほど、異種の面が気になる。そして、それが許せない。つまり、池端は怖い人なのだ。
 ただ、そこまで一致を見る相手などいないことは知っている。
 池端が他者との接触を避けるようになったのは、そのためだ。決して人が嫌いなわけではないし、人と話をしないわけではない。ただ、意見を言わないといけない状況にならないように徹している。
 池端は快不快の原則で生きている。そのため、誰と接しても、快と不快が交互に来る。
「困ったものだ」と池端は、この病的な性格を悔やむ。悔やむとは、思わぬことをしてしまったことに対する後悔の念だが、ただ相手の話を聞いているだけで、どんどん不快になっていくのは、悔やむというレベルではない。聞いているだけで、行動は伴わないのだ。そのため、その感情が出てしまうことに対して悔やもうとした。スイッチを入れてしまったことを悔やむのだ。しかし、池端の責任ではない。勝手に入るのだ。
 だから、それはアレルギーのようなものかもしれない。
「不快は回避できない場合があります。だから、不快の逃がし方を学びましょう」
「そんなことが出来るのですか。気がつけば不快になっています。ああ、今は不快じゃないですよ」
「仏教で行きましょう。仏教で」
「宗教ですか。今から信者になるのですか」
「そうではない。お釈迦様の知恵を借りましょう。世の中はいっさい苦です。苦しかありません。そう考えると、苦痛であって当たり前。苦痛が標準になり、日常になります。だから、それに対して、いちいち反応しなくなります」
「つまり、世の中は苦しい世界なのですね」
「そうです。そうです。苦しさからは逃れられません」
「助けてくれないのですか。仏様は」
「あなたのような人は信仰には向きません。だから、信者にはなれないし、宗教的な話には乗ってこないはずです。そんなことではだまされないからです」
「確かにそうです」
「不快を苦と置き換えなさい」
「なるほど」
「すると、不快で普通なのです。元々人間世界は苦痛以外の何物でもないのです。だから、あなたの場合、気持ちよさを求める気持ちが駄目なのです」
 池端は不快になった。駄目という言葉に反応したのだ。
「僕は駄目なんですか」
「あなたが駄目なのではなく、発想が駄目なのです」
「でも、それは、僕の全人格に近いですよ。この発想は」
「ああ、それは少し大事ですなあ」
「僕の人格を変えないで、何とかならないでしょうか」
「人格?」
「そうです。考え方を変えるとか、そういったもの、なしで、お願いします」
「それは、難しいです。私はヒントを与えるだけのヘルパーなので、それ以上突っ込んだ話には至らないのです」
「至ってください」
「至りたいですが、私にはそれだけの知識がありません」
「これで、一万円ですか」
「すみません」
「まあ、いいです。前払いなのは、そのためなんですね」
「はい」
 池端は、椅子から立ち、ドアを開けて、出ていった。
 しかし、不快さはない。それよりも希望に満満ちていた。
「僕もカウンセラーになろう」
 と、非常に明るい独り言を吐き出した。快適だった。
 
   了

 


2012年3月7日

小説 川崎サイト