小説 川崎サイト

 

あるバイトの聖地

川崎ゆきお


 正社員とバイトが、ある日、会話する機会を得た。お互いにコミュニケーションをとろうということでの会話ではない。会話は偶然発生した。雑談だ。しかもプライベートな。
「今月までです」バイトを辞めるようだ。
「ああ、そうなんだ」社員は特別な反応はしない。あまり関係がないからだ。誰かがまた入ってきて、席を埋めるだろう。
「大変だね。バイトは」
「バイトは大変じゃないです」
「ああ、そうなんだ。そのつまり、フリーターですか。そのフリーターというの、大変じゃないかと」
「経済的には苦しいです。でも仕事は大変じゃないです」
「そうなんだ」
 仕事が大変なのはこの社員だった。
「聞いていいかな」
「はい、どうぞ」
「うちの会社、気に入らなかったのかな」
「そんなことありません。可もなく不可もなしです」
「あ、そう」
「一身上の事情です」
「じゃ、聞いちゃいけない事情なんだ」
「表向きのちゃんとした事情ですよ。一身上に持ち込んだわけじゃないです。旅行に行きます。旅費が貯まったので」
「旅行か、いいなあそれは、で、何処へ」
「東南アジアです」
「海外旅行か。僕なんか新婚旅行で韓国へ行ったきりだ」
「貧乏旅行ですよ。仏像を見に行きます」
「ぶ、仏像」
「アジアの仏ツアーです。これ、そんな企画ないですよ。僕が勝手に作って、勝手に行くだけですから」
「意外だなあ。考えもしたことがない」
「国内でもいいのです。四国の巡礼でもいいのですがね。それも一週間ほど巡ったこと、あります。でも、海外のほうが雰囲気がいいのです。がらりと変わりますから。見たことがない仏像や、遺跡です」
「ああ、僕も行きたくなったけど、まあ定年退職後じゃないと無理かな」
「違いがあるほど、醍醐味も大きいのです。だから、海外に飛んだほうが効果的なんですよ」
「仏像の研究でもしているの」
「いえ、学校は理工系です。メインは旅行です。それだけじゃ、もったいないので、写真を写します。ただの観光写真ですよ」
「じゃ、趣味なんだ」
「はい」
「それで、バイトを辞めるんだ」
「はい、この会社、時間給よかったので、早く貯まりましたよ」
「自由なんだ」
「そのかわり、蓄えなんてないし、将来はないですよ」
「まあ、いつかどこかで落ち着くさ」
「はい、それはまあ、成り行きで」
「東南アジアの仏像って、そんなにいいのかな」
「日本の仏像とは、ちょっとお顔やスタイルが違うんです。これは、違うけど、近い。程良い距離なんです。でも、仏像を見るのが目的じゃなく、うろうろするのが目的なんです。まあ、それを普通旅行って言うんでしょうね。物見遊山です」
「戻ってきてから写真集とか出さないの」
「そんなの出しても売れませんよ。ちょい写しですから」
「そうなんだ」
「別世界にワープしたいだけなんです。その間、自分が自分でいられますからね」
「わかるような気がするが、僕には出来ないなあ」
「だから、仏像じゃなくてもいいです。ただのネタですから。旅行のための」
「帰ってきたら、また、別のバイトを見つけるのかい」
「そうです。またバイトで旅費を貯めます」
「いいねえ、青春だ」
「いえ、あなたより、年上のはずです」
「あ、そうだったのか。これは失礼」
 
   了



2012年3月12日

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