小説 川崎サイト

 

天津飯事件

川崎ゆきお


 武田は不機嫌な顔だ。
 木下は、武田がいつもと違うので、ちょっと聞いてみた。しかし、武田がそんな顔になるのは珍しくない。いつも不機嫌なのだ。
 木下は、会話が途切れたので、武田の不機嫌について聞いてみた。
「天津飯だよ」
「中華丼のようなやつだろう」
「ああ」
「それが不機嫌な理由解かい」
「天津飯は好きだ。中華丼よりも好きだ。天津飯は卵丼に近いのだが、その大きな違いはとろ味だ。これが天津飯最大の特徴と言っても過言ではない」
 武田は喋り出すと不機嫌さが薄まっていく。機嫌の悪い声ではなく、いいときの声に変わった。もうそれで、木下は目的は果たしたようなものだ。天津飯の蘊蓄を聞きたくない。しかし、武田も木下の話を黙って聞いてくれる。だから、お返しだ。
「その天津飯をコンビニで買った。まあ、弁当の一つだ。ジャンルは弁当だ。カレーライスも天ぷらうどんもある。まるで百貨店の大食堂だ。何でもある。その中に新製品とシールの貼られた天津飯があった。親子丼や、カツ丼は見たことがある。天津飯は初めてだ。そして、その日、僕はご飯が食べたかった。ご飯類なら、何でもよかったのさ。そしてご飯は部屋で炊けばそれですむ。だが、その日、仕事から戻ってからの疲労感の高さで、米を炊く気がしない。それには理由がある。きっかけを阻んでいるのは米櫃なんだ」
 木下は黙って聞いている。実際には他のことを考えているのだが。
「阻んでいるのは米櫃が空だってことさ。しかし、米袋には半分米が残っている。米櫃に全部入らなかったので、半分残っているのだ。それを入れればいい。米櫃にね。それが面倒なのだ。なぜなら、米櫃には蓋がある。それを開けないといけない」
「米櫃の蓋なんて、米を取り出すとき、いつも開けるじゃないか」
「仕掛けがある。蓋に窓がついており、それを摘めば開く。しかし、米袋の米を入れるには、その窓は小さい。だから、蓋そのものを外さないと駄目なんだ。これがもう面倒で面倒で」
「わかった。要するにそれで、コンビニへ弁当を買いに行き、天津飯を買ったのだね」
「すべて省略すると、そうなんだが、人の行動にはそれなりの理由がある。そこを聞かないと、ただ単に天津飯を買っただけの話になる」
「わかった」
「天津飯は弁当の中では中程の価格だ。高いのは焼き肉弁当や幕の内だ。それよりも安い。そして、おむすびにちょっとだけおかずが入っているタイプが一番安い。量としては半分ほどかな。そして、天津飯はちょうどの量でちょうどの価格だ。買うに値する満足感だ」
「それで、どうして不機嫌になったのだい」
「価格も量も満足で、温めてもらい、すぐに部屋に戻り、蓋を開けた。すると、まだ温かい。熱いほどだ。レジ袋にはスプーンと箸、両方が入っている。店員の配慮もうれしい。天津飯はやはりスプーンだよ。卵丼は箸だ。店員はよく気がついた。箸かもしれないが、実はスプーンが正解だ。しかし、買った瞬間は箸ではないかと思う客もいる。丼物だからね。大の大人がスプーンで丼物は食べないだろ。しかし中華は別だ」
「問題は箸とスプーンの対決なのかい」
「そうじゃない。実は箸でもスプーンでもどちらもいいんだ。箸もスプーンも部屋にあるからね。それにプラスチックのスプーンは味が悪くなる。プラスチックの味がするからね。ここはレンゲだよ。レンゲの発明はすごいねえ。移動式茶碗だ」
「そうだね」木下は、もうどうでもいい話になっている。興味がない。それでも最後まで聞き続ける義務がある。自分から聞いたのだから。
「ご飯が塚のように中央にこんもりとあり、その周囲を沼だ。これは古墳なんだ。または要塞だ。天津飯の天津飯たらしめている卵焼きがその円墳の上に乗っている。見事だ。この沼のようなものが、とろとろした粘液性の高いとろ味だ。出汁なんだがね。どろどろしている。その沼の中央部に島のように卵を乗せたご飯があるんだ。これは見せるねえ」
「じゃ、満足したんじゃないのかい」
「大いに満足した。しかし、その後がいけない」
「どう?」
「味じゃない。美味しかった。それは味に対する評価だ。ややご飯が硬かったがね。これはレンジでチン式なんだから、割り引ける。問題は、上に乗っている卵だ」
「卵が本名なんだ」
「卵焼きの中に何かが入っている。そうだろ。卵で、柔らかくご飯を包み込む。それが天津飯だ。しかし」
「その、しかしが、いよいよなんだね」
「キタねえ。ここで」
「どうだった。美味しかったんだろ」
「味には不満はない。しかし、卵焼きの中に入っているものが少ない。見た目、海老があった。小さな海老だ。それ以外にも、何か入っていた。海老の数を数えると二つだ。少ない。その他の具は、何かよくわからない欠片だ。キクラゲらしいものがあったような記憶している」
「立派な天津飯じゃないか」
「いや、だから、これなら、自分で卵焼きをご飯に乗せて、片栗粉で溶いた出汁をぶっかけりゃ、すむことなんだ。実際の栄養価から言えば、ご飯一膳分と卵焼きだよ」
 木下は、もうこれで、話のすべてを聞いたので、それ以上の義務はなくなった。
「あんな具の少ない天津飯は駄目だ」
 その後も、武田の愚痴は続いたが、もう好意的な聞き方にはならない。
「きっかけは米櫃の蓋なんだ。あれさえクリアーしておれば、ご飯と卵はある。片栗粉も調味料もある。自分でも作れたんだ」
 武田は喋りきったので、すっきりしたようだ。
 聞き役になった木下はダメージを受けたのか、不機嫌な顔になった。
 
   了


2012年3月17日

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