小説 川崎サイト

 

氷の話

川崎ゆきお


 高岡は毎日喫茶店でアイスコーヒーを飲んでいる。そのアイスコーヒーの中には氷が入っている。アイスピックで割ったものだ。四角いそれではない。
 そのことを知っていたのだが、特に注意して見ていない。
 だが、最初、この店でアイスコーヒーが出てきたときは、それなりに注視した。アイスなので、ホットが出てきたわけではないので、気になるような問題ではない。ただ、それがガラスのグラスで、しかも年代物で、同じものをどこかで買おうとしても、なかなか見つからないだろう。
 高岡は十年以上この店に通っている。アイスコーヒーのグラスはずっと同じ形だ。滅多に割れないのだろう。
 そして、もう一つの注目点はシロップが最初から入っていることだ。これは少し気になった。高岡は糖分制限をやっているわけではないが、甘すぎるアイスコーヒーは口に合わないのだ。合わないからといって飲めないわけではない。出来れば甘さ控えめが好ましいが、少し甘いなあ、程度ですむ問題だ。そして、十年も同じものを飲んでいると、その甘さも気にならなくなる。
 次はフレッシュだ。この生クリームは大きい目のステンレス容器の中に入っている。小さな茶瓶のような感じだ。これは高岡にとり好ましい。量を調整できるためだ。糖分は控えめだが、生クリームは多い目が好みなのだ。といって、小さなカップ入りのフレッシュを出す店で、二つ要求するようなことはしない。それを言うのが面倒なためだ。また、自分でそのカップを好きなだけ取れる店でもも、一つしか取らない。だから、これも大した問題ではない。それでも、茶瓶に入った生クリームを入れる行為は好きだ。途中、引き時がある。流し込むときなので、上げ時だろうか。
 そこまでは十年前に思ったことで、その後、このパターンが綿々と続く。そのため、もう気にもとめなくなっていた。出るべきものが出てくる感じだ。
 しかし、最近その中に入っている氷が気になった。アイスピックで割ったものなので、毎回形が違う。その変化に敏感ではなかったのだ。見えているはずなのに、見ていなかった。
 真上から見れば、氷の形が、毎回違い、毎回入り方も違うのが見えるはずだ。確かに生クリームを入れるときは見ているはずだ。そのときは氷ではなく、白い生クリームの流れしか見ていない。氷は背景なのだ。その氷が入ってなければ、すぐに気づくはずだ。それなら、目立つ変化となる。
 そして、その生クリームが煙幕になる。白くドロリとしたものを流し込むと、コーヒーの茶色に混ざり、もう氷の形が見えなくなるのだ。氷は入っている。だから、それを確認しなくてもいい。入っていることは、先ほども触れたように生クリームを入れる段階でわかるからだ。
 その後、アイスコーヒーをストローで飲むのだが、常にグラスを見ているわけではない。本を読みながら、新聞を読みながらなので、目はグラスに入っていないのだ。アイスコーヒーを飲むタイミングになると、一瞬だけ位置を見て、さっと手を伸ばす。このとき、グラスの中の氷を見ると言うことはほとんどない。全く見ていないわけではないが、この場合はグラスを見ているのだ。氷ではない。
 それだけではない。アイスコーヒーの氷を見ようとしても、しばらくすると、溶けだし、そして消えてしまう。もうあの鋭い角度の氷の状態から遠い存在になる。
 高岡が再確認したかったのは、勢いのいい鋭利な氷だったはずだ。その切れの良さが、アイスコーヒーの味を変えるとまでは言わないが、目で飲むとは、そういうことなのだ。
 高岡は、まだ日常の中にも、見落としているものが、非常に多くあるのではないかと、つくづく感じる。
 
   了


2012年3月24日

小説 川崎サイト