年寄りの話
川崎ゆきお
年をとると古いものが気になるようだ。それは、昔のことを思い出すのではなく、もっと昔の話が気になるのだ。
ちょうど村の長老が語っていたような伝説などだ。武田はそろそろ長老の年にさしかかっている。まだ、先はあるが、長老のようなことが語りたくなったのだ。
しかし、武田は村には住んでいない。またふるさとも村ではなく、市街地で生まれている。そのため、長老などいなかった。
武田の知っている村の長老は、ドラマやドキュメンタリーに出てくる年寄りで、古いことを語り、またイニシエのことを語る人だ。
そして本などに出てくる古い話だ。伝説や伝統。風俗や習俗。そういった骨董趣味のようなものだ。それらは昔からあまり変わっていない。逆に廃れてしまい、今はもうないものが結構ある。
これは現代劇と時代劇の違いだ。時代劇の、その時代は固定している。現代劇は、常に今が変化するため、数年前の現代劇は、何とも言えないものになる。たとえば十年前の背景で描かれたジャンルというのはない。だが、戦国時代や幕末ものはジャンルとしてある。
年をとると、考え方が古くさくなるのだが、それはあえて古い時代と合流したいためかもしれない。それは昔からそれなりに続いているものなら、これから先も、まだあるだろうと考えるからだ。
そのため、数十年前の古さではなく、数百年規模の古さまで飛べば、安全地帯となる。
年寄りは寺社参り、名所旧跡巡りをしたがる。きっと武田の先祖も、同じものを見たのかもしれないという流れがある。
新しいものは将来に役立つ。これは将来のため、見ておいたほうがいい。しかし、年をとると、その将来に、既になっているので、あまり役に立たない。もう何もしなくてもよくなった隠居さんなどは、今が将来なのだ。
だから、安心して役に立たないものに接することができる。
武田は、そう考えるのは、やることがないので、ネタを探しているためだ。
早く見つけないと、動けなくなる。
と、思いながらも、テレビを見ていると、気が済んでしまうことがある。それ以上のものが現実にあるとは思えなくなっている。
「いや違う」
つまり、体験して初めてわかることがある。
だが、その信念は、最近ぐらついている。
了
2012年4月5日