小説 川崎サイト

 

池の中

川崎ゆきお


 雨の境内。観光の寺ではないが、門は開いている。近所の人が近道として境内を通るためだろう。
 ビジネススーツ姿の男がぽつりと池の畔に立っている。ビジネスバッグは本革で、ショルダー式にはならない手提げだ。
 池に無数の雨粒が突き刺さり、小さな波紋が次々に出ては消え、消えては出る。
 男はそれを見ている。傘も差さずに。
 鞄の中に三段式の折り畳み傘が入っているのだが、出す気配がない。中途半端な降りなのだ。
 スーツも鞄も濡れているが、男はずっと立っている。
 池の半分は蓮の葉で覆われ、その奥に石仏が立っている。古いものではない。誰かが寄進したものだろう。
 男はそんな仏など見ないで、水面をずっと見ている。
 顔に表情はない。どの筋肉も使っていないようだ。感情がない。ギアがローに入ったままだ。
 やがて男は動き出す。それも池に向かって。
 ビジネスシューズが泥濘を踏む。ぐっと沈む。
「おっと」
 男は思わず声を出す。感情のスイッチがやっと入ったようだ。思っていた以上に靴が沈み込んだため、バランスを崩したのだ。しかし二の足を前方に進める。さらに泥濘は深く、「おっと」とまた声を出す。三の足は最初の足で、泥濘から抜く必要がある。
「よいしょ」と声を出し、三歩池に近づく。まだ水面ではない。手前だ。
 四歩目は完全に水面に足を入れることになる。そこから急に深くなっている。
 男は、「えい」と気合いを入れ、池に足をつっこんだ。
 さすがに段差があるため、大きくバランスを失うが、ビジネスバックを倒れそうになる反対側に振り、かろうじて転倒を免れた。
「私を誰だと思っているんだ」
 次の足を踏み込むことで、男の靴は完全に消えた。
「覚えていろ。必ず見返してやる」
 男は歩をさらに進めた。段差どころか、池の底に足をつっこだため、あっとういうまに膝まで浸かってしまった。男は前のめりで池の中で突き刺さっているような姿になった。そして、歩を進めるにも、抜けない。
 男はビジネスバックを振り回し、勢いをつけたが、足は抜けない。
「こんなことで倒れてなるものか」
 その言葉とは裏腹に、スローモーションのように体が傾き、その後、一気にバシャリと水しぶきを立てながら、転倒した。
 男は泳いだ。宙を泳いだのではなく、池の中を泳いだ。
 まだ浮いているビジネスバックをつかみ、水際まで腹這いで戻った。
 電車に乗れない。タクシーを呼ぶにもケータイは反応しない。
「防水タイプにすべきだった」と細かいことを思った。
 さて、どうして帰るかだ。
 男は泥を洗い落とし、雨でびしょ濡れになったのと同等の姿に戻そうとした。これならよくあることだ。
 しかし、パンツまで濡れている。歩くと滴が垂れる。
 男はそれを手で掴んで搾り取る。
「私はなにをしているのだ。なにを」
 
   了


2012年4月6日

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