小説 川崎サイト

 

鬼海ヶ城

川崎ゆきお


 三階建てのビルの向こうに、似たような高さの塊がある。
 沢村探偵はやっと犯人を追いつめた。尾行したのではなく、故郷へ戻っていると確信したからだ。
 鬼海ヶ市は海辺の町で、山がそこまで迫っている。そのため、市街は坂道が多く、老年の沢村探偵は、春先とはいえ、もう汗だくだ。カッターの襟が汗で汚れるのを気にしながら、タオルで何度も拭っている。ハンカチでは追いつかないのだ。
 山沿いの旧家が犯人の実家で、その坂を先ほど登ったばかりだ。犯人の実家は地元の豪族で、地侍だが、元を正せば海賊だったようだ。
 老いた両親は犯人がつい今し方までいたと語った。実家までの道は一本。そのため、すれ違わなかったので、それなりに時間がたっていたのだろう。
 時間を老夫婦に問いただすが、要領を得ない。田舎の今し方は長いのかもしれない。
 沢村探偵は、この実家で犯人と接触し、自首するように進めるつもりだった。やっと突き止めたのに、残念そうだ。
 駅から市街を探し探し、やっと見つけた実家なのだ。ここで終わると思い、急いで坂を登ったのがいけなかった。かなり足に来ていた。
 犯人の逃走先、立ち回り先は、もうない。市街にいるのだろが、当てなく探すだけの体力はない。
「鬼海ヶ城跡かもしれん」
 犯人が子供の頃、よく遊び場にしていた城山で、今は石垣しか残っていない。きっと、そこから海を見ているのではないかと、夫婦は語った。
 そして今、沢村探偵は、城山らしい塊を見つけたのだ。ビルの三階ほどの高さだ。頂上は平らで、神社の鳥居が見えている。
 沢村探偵は実家の道を下りるとき、膝に来た。登りよりも下りのほうが膝を痛める。最近はホームゴタツ探偵のため、足での捜査などはしていない。そして、散歩も運動もせず、部屋でゴロンとしている。よく食べ、動かない。そのため、首の後ろに瘤が出来るほど太ってしまった。若い頃から、運動は得意ではなかったので、体を動かすことを厭ったのだ。
 坂道を下り、平地を歩いているときに、城山の登り口を発見したのだが、このとき既に膝に痛みが来ていた。右膝だ。そのため、この足を棒のように立てながら歩いた。すると、今度は左足に負担がかかった。それがじわじわ来る。どちらかの膝を曲げないと、前に進みにくい。
「三階建て程度の階段」
 沢村探偵は石垣に斜めに走っている階段の手すりを見ながら、確認する。
「何とかなる」
 そして、手すりに掴まりながら、やっと階段を登り切った。
 しかし、そこが天守跡ではなく、ただの神社だった。そして、その奥にまだ階段があり、城山が続いていたのだ。またも三階建て以上の丘が見える。そして、階段が続いていた。城なので、いきなり本丸というわけにはいかないのだろう。
 沢村探偵は思案した。今の階段は登れたが、痛みはかなり来ている。そして、登りなので、その程度の痛みですんでいる。
「下りられるだろうか」
 体力的には下りは楽だ。だから、体力の限界ではなく、痛みの限界を考えたのだ。試しに階段を下りてみた。毎回両足をそろえないと、下りられない。そして、右足を少し曲げた状態で、体重をかけると、痛みが走った。
 たとえ登れたとしても、犯人が上にいるかどうかだ。そして、犯人をうまく説得しても、一緒に下りてこれない。痛いので、先へ行ってくれとは、言いにくい。そういう状態なので、犯人に肩を貸してもらうなどは、ちょっと考えにくい。
 それは、城山の上に犯人がいたとしての話だ。いなければ徒労だ。そして、いたとしても、うまく説得出来なければ、格闘になる可能性もある。これは無理だ。
 沢村探偵は階段を下りかけた。しかし、痛さで進めない。それならばと、上へ向かう階段を登るしかない。どちらが痛いかを考えての判断だ。
 一段二段と、それなりに登れる。下るより遙かに楽だ。
 階段は曲がりくねっており、石垣と、山肌に塞がれ、見晴らしが悪い。しかし頂上は目の前にある。
 そして、登り切る手前で顔をそっと出し、頂上の様子を窺う。
 人の姿はない。階段の踊り場のような場所で、その先に道があり、そして小高い丘が見える。
「まだ、頂上ではないのか」
 城山は一つの山ではなく、山脈のようになっていたのだ。
 市街がよく見え、海も広く見渡せた。
 ここまで来ると、この城山の最高峰まで行くしかない。きっとそこが本丸だが、そこは聳えておらず、下から見ると、前方の頂の陰に隠れて見えない。だから、まだ上があるのかどうかがわからない。横に長細い城なのだ。
 そして、その坂を登り切ったところから、さらに小高いものが見えた。
 沢村探偵は、自分が殿様なら、きっと本丸御殿から一生出ないのではないかと思った。もし、家来が、本丸のある御殿に通うとなると、大変な体力が必要だ。年とった重臣などは駕籠を使ったのかもしれない。
 沢村探偵は本丸に至る階段に痛い右足をまず置いた。着地した瞬間左足を横にそろえた。手すりはなく、直接石垣に手を引っかける。もうロッククライミングだ。岩場登りと変わらない。
 汗は出るものの、山頂付近は風があり、快い。海岸沿いの家々や駅、商店街が見え、堤防の向こうに緑色の汁を垂らしたような海が見える。赤と青の貨物船がペアで沖合にいる。
 そしてようやく登り切ると、そこはだだっ広い広場だった。サッカーが二試合できそうな広さだ。とてもではないが山頂とは思えない。平地に近い。
 ここが天守閣を含む本丸跡なのだ。今は、高校の運動場になっているらしい。確かにサッカーと野球、同時に出来そうだ。一番奥まった場所が、おそらく天守跡だろう。幸いそれ以上高い場所はない。登り切ったのだ。もうこれで登りはない、すべて下りだ。
 野球のネットが無造作に立っているだけで、人が隠れるような場所などない。すべて見晴らせる。広場の下は全て石垣だ。
 犯人はいなかった。
「徒労か」
 沢村探偵は、戻ることにした。
 犯人は別の場所にいるのか、または、もう町を出たかだ。
 沢村探偵は、ここで犯人との対決を果たすはずだった。状況証拠を並べ、どうして犯行に及んだのか、その動機まで言い当てる予定だった。
 そして、この事件は遙か昔、犯人が幼少の頃、鬼海ヶの町で起こったある事件が絡んでおり……と粛々と語り倒す予定だった。
 沢村探偵は、単に運動をしただけで、終わった。いや、大事なのはこれからだ。この城山を下りるときのほうが、大変なのだ。
 それを考えると、すぐに山を降りる気にはなれなかった。
 
   了


2012年4月8日

小説 川崎サイト