小説 川崎サイト

 

離魂術

川崎ゆきお


「もうかれこれ四十年、いや五十年ほど前になるがね。暑い日だった。私は下宿屋で昼寝をしておったのだが、これがまた暑い。しかし動くとさらに暑いので、押入の襖を開け、その横に簾を敷き、寝転がっていたんだ。するとね。上京していた友人が戻ってきた。今、駅に着いたって公衆電話から連絡してきた。一週間ほど前、彼から手紙も来ていた。帰るってね」
 心霊研究家の高島は、低い声でそこまで語った。
「お盆ですか」
「いや、夏休み前かな。梅雨が明けて、暑い日だ。日が盛んでね。このころは幽霊など出ない。梅雨か盆に決まっておる」
「はい」
「私はすぐに支度し、自転車で駅まで走った。正月に会ったきりだしね。それに彼とは積もる話がある。昔はねえ。一晩でも二晩でも語り明かせたんだよ。何を喋っていたのかは、もう忘れたがね。共通の友達の話題や、通信教育で運転免許は取れるかどうかの話。謄写版で会報を出そうという話。それはもう尽きないよ」
「謄写版って、ガリ版のことですか。孔版印刷ですね」
「ああ、そうだよ。そのころから不思議研究会をやっておってね。彼は初期のメンバーだ。だから、会の運営について話し出すと、止まらない」
「はい」
「駅に着くと、彼が改札前で立っていた。駅は見慣れた光景だが、そこに彼がいることは、不思議というか、妙な感じがした。まあ、風景よりも、彼の姿のほうにこそ馴染みはあるんだが、何か古いアルバムの写真を見ているような気持ちになったね。しかし、すぐに目が合い、彼が笑いながら近付いてきたので、もういつもの感じになった。とりあえず喫茶店で休憩した。暑いのでね。涼しい場所に入りたかったんだよ」
「そのお友達は、何か飲みましたか」
「暑いのにホットコーヒーを注文しておった。冷たいのは体に悪いと思ったのかどうかはわからない。まあ、コーヒーしか飲まない奴だから、適当だった。私はアイスコーヒーを注文したが、特に意味はない」
「それで、彼はホットコーヒーを飲みましたか」
「飲んだよ」
「本当に」
「ははは、君は帰省した彼を幽霊だと思っているんだろ」
「はい」
「その後、別の店で飲み食いしたし、彼の実家におじゃまして、一泊したよ」
「ご両親は、彼を見ましたか」
「ははは、私一人だけで彼の実家へ行っても泊めてはもらえないだろ」
「そうですね」
「翌日は、もう帰るらしいので、また喫茶店を梯子して語り合ったよ」
「それで、戻られたのですか」
「ああ、駅で分かれた。彼は帰って行ったよ」
「それで終わりですか」
「残念ながらそうなんだ」
「彼が亡くなられていたとは思いませんが、東京から離れなかったんじゃないでしょうか」
「離魂術かね」
「そうです」
「その症状は彼にはあったが、それはせいぜい布団の上程度で、四畳半程度の範囲しか移動は出来んかったようじゃ。頑張っても家の中だけ。つまり、外出するほどの力はなかったはず」
「会得されたのではないですか」
「しかし、離魂した状態で、一晩語り明かすのはつらいだろう。それに煙草もすぱすぱ吸っておった。肉体がないと出来ん相談じゃ」
「じゃ、この話は何ですか」
「この話?」
「その帰省した友人の話です」
「だから、暑い日に、上京していた友達が帰ったので、語り明かしたという話じゃないか。聞いていなかったのかね」
「ああ、そうでした」
 
   了


2012年4月10日

小説 川崎サイト